第23話 【快斗5】
長い夢の終わり。
文字通り俺の夢は一つ、終わったんだ。
やけにリアルな夢だった。二度と見たくない夢。俺にとっては、もはや消し去りたい過去と言っても過言じゃない。
——忘れたい。茉莉ちゃんへの気持ちも、あの東屋での出来事も。それらに対する俺のダメさ加減も。
楽しかった思い出だけ残っていれば、それでいいのに。
「あ、起きたの? あなた朝からずっと寝てたのよ? 体の調子はどう?」
二回のノックと共に、部屋のドア越しにお母さんの声が聞こえる。
お母さんの声で今まで見ていたリアルな夢から完全に覚めて、現実に戻ってきたような気がした。
——そうだ。俺は今日仮病を使ったんだ。
そう考えると、罪悪感で少しだけ心が痛む。
「あ、うん。一日寝てたらなんとか……」
「そう? ならいいんだけど。食欲は? あるなら下に来なさい。ご飯用意してあるから」
お母さんが階段を下りる足音が聞こえる。
時刻はいつのまにか、十七時を過ぎていた。
「わかった」
面倒だけど、今このご飯を食べなかったら、俺はこの部屋から一生出られなくなるような気がしたんだ。
ベッドから降りて、パジャマを脱ぐ。その動作がひどく人間的に思えて、俺はなんだか笑ってしまう。
俺は人間だったんだ、なんてわけのわからないことを考える。
「快斗! 早く下に来なさい!」
お母さんの大きな声。
「わかってる! 今着替えてるから!」
「違うの! あなたにお客さん!」
「へ?」
——お客さん? 誰だろう?
俺はジーンズに付いている社会の窓を急いで閉め、ドアを開ける。
ワクワクするような、気まずいような。ジェットコースターに乗ったときと同じ心の浮遊感に身を任せて階段を駆け下りる。
「あ、体の具合はどう?」
階段を下りる俺に笑顔で手を振っていたのは、恵太だった。
恵太の高い身長のせいか、どこか家の玄関が小さくなってしまったように見える。
「これ、お見舞い」
そう言うと恵太は持っていたビニール袋を俺に差し出した。中にはコンビニで買えるフルーツゼリーが二つ。
「みかんとマンゴーを買って来たんだ。快斗甘いもの好きでしょ? で、どっちか選べなくて二つとも買っちゃったよ。あはは」
恵太の優しさに、俺は泣きそうになる。「上を向いて歩こう」というどこかで聞いたフレーズを思い出し、見慣れた家の天井を涙で滲ませる。
「どうしたの? もしかして泣いてる? ……あ、まさかグレープが好きだとか?」
「な、泣いてない。なんか目に埃が入ってさ……。それと、俺は甘いものならなんでも好きなんだ」
わざとらしく目をこすって、涙をうやむやにする。
「そうか。……もう熱は大丈夫?」
——恵太たちは俺が本当に風邪をひいたと思っているんだ。
恵太の言葉に、俺は仮病を使ったときよりも大きな罪悪感に襲われた。
「……ごめん」
正直に言おう。少なくとも俺に優しくしてくれた恵太にだけは。
「どうしたの?」
「と、とりあえず部屋に入って」
玄関に立ちっぱなしだと、お父さんやお母さんに聞かれるかもしれない。俺は自分の部屋を指差して恵太を促す。
「お邪魔しちゃっていいの?」
「いいよ。お父さんもまだ帰ってこないだろうしさ」
「じゃあ、お邪魔しまーす……」
恐る恐る、といった様子で恵太は靴を脱ぐ。
「俺の部屋、二階だから」
「いいなあ二階の部屋。一人部屋?」
階段を上がる足音が、二つ。少しずれたテンポで家に響く。
「そう。俺は一人っ子だからさ」
「羨ましい。僕なんて兄ちゃんが大学進学して引っ越すまでずっと二人で同じ部屋を使ってたからなあ」
「恵太の兄弟はお兄ちゃんだけ?」
「いや、三歳上の兄ちゃんと二歳下の妹がいるよ。それがさ、聞いてよ。なぜか妹は小学校卒業したと同時に一人部屋をもらってたんだ。女の子だからってさ。ズルイと思わない?」
階段を上がり切ってすぐの部屋のドアノブに手をかける。
「それはちょっと嫌だね」
相槌と同時に部屋のドアを開ける。
「どうぞ」
「おお〜。これが快斗の部屋!」
恵太は少し興奮した様子で俺の部屋を隅々まで眺めていた。
「めちゃくちゃ綺麗にしてるじゃん! うわ、すごい快斗らしい部屋だなあ。ダイバの部屋とは大違いだ」
「ははは。ダイバの部屋はごちゃごちゃしてるからね」
昔から何度も遊んだ六畳が頭に浮かぶ。
ダイバの部屋は色々なものが乱雑に置かれていて、整理整頓のせの字もない。
ダイバは「ごちゃごちゃしてるように見えるだろうけど、どこに何があるかはちゃんと把握してるからいいんだよ」と言っていたけど。
ただ、掃除機は定期的にかけているようで、埃が溜まっているところは見たことがないから、そういうところはダイバらしいっちゃダイバらしいのかもしれない。
「正直僕の部屋もごちゃっとしてるから、ダイバのことは言えないけどね」
「恵太の部屋は行ったことないから、今度お邪魔させてよ」
「もちろんいいよ! ただ、いきなり来たらごちゃごちゃしてるから、前もって教えてよ? 快斗みたいに、寄ってく? みたいなノリで招けないからさ」
「なんだよ。そんな軽いノリで言ってないよ」
久しぶりに会話らしい会話をしたような気がする。
「あはは、ごめんごめん」
恵太は笑う。俺もつられて笑う。これもたしかに、青春なのかもしれない。
「それで、なんか話したいことがあるんでしょ?」
恵太はゆっくりとカーペット上に座ると、少しだけ真面目な顔で聞いてくる。
「今日さ、俺、仮病使っちゃったんだ」
「……え?」
恵太が肩に入った力を抜く。
「仮病? じゃあ、風邪はひいてないんだね?」
「うん。ごめん、恵太。心配してくれたのに」
俺は頭を深く下げた。
「あはは! いいよそのくらい! 快斗はやっぱり真面目でいいやつだなあ」
「いいの? 嘘ついたんだぞ?」
「その程度の嘘、謝ってくれるなら僕は咎めたりしないよ」
恵太は胸を張って言う。そして少し恥ずかしくなったのか、カーペットの上で小さくまとまったように座った。
「ははは。恵太こそいいやつだな」
「ありがとう。でも珍しいね、快斗が仮病を使うなんてさ。なんかあったの?」
「いや、実は……」
俺は迷う。失恋したことを言うべきか、言わざるべきか。
「……もしかして小野澤さんのことかな?」
小さくまとまった体育座りを崩して、恵太は俺の目をじっと見つめる。
「なんでそれを?」
俺は否定することも忘れて恵太に聞いてしまった。
「もうダイバと快斗との付き合いも二年目だよ? そのくらい、僕でもわかるって」
恵太のメガネの奥の目は、どうやら俺が思っているよりもたくさんのことを見ていたらしい。
「小野澤さん、一年の頃からダイバのこと大好きだもんねえ……」
まるで星でも眺めているかのような穏やかさで、恵太は呟くように言った。
「そうなんだよ。俺もさ、ずっとわかってたんだ。でも知らないフリをしてさ、ずっと二人の仲を邪魔しようと思ってたんだ」
「……僕は、本当は快斗と小野澤さんがお似合いな気がするんだけどな……」
そう言う恵太は、どこか寂しそうだった。
「ありがとう恵太。でもいいんだ。もう諦めたから。それに、茉莉ちゃんが幸せならそれでいいかな、なんて思うんだ。カッコつけなだけだけどさ」
「そう言えるだけで充分カッコいいよ。僕だったら、そんなことは言えないと思うから」
恵太は嘘が下手だ。それは俺とダイバがよく知っている。だからこそ、こんなに嬉しい言葉を言われると、どうしていいかわからなくなる。
「あ、そうだ。快斗さ、七月二十七日空いてる?」
「二十七日? どうして?」
「久留島高校の女の子二人と遊ぶんだよ」
「えっ!? 嘘だろ?」
得意げな恵太の顔をまじまじと見つめる。
「本当。ほら、昨日教室で話してただろ? ダイバと快斗に久留島高校に行くのを付き添って欲しいってさ」
「ああ、そういえばそんなこともあったような……」
「自分でもびっくりなんだけど、久留島高校の女の子と連絡先を交換してもらってさ。それで昨日の夜ちょっとだけ電話して、遊ぼうって話になったんだ」
そう話す恵太は、どこか大人びた雰囲気を纏っているように見えた。もう少し正確に言うなら、余裕ができた、なのかな?
「本当なら昨日付き添ってくれたダイバを誘うべきなんだけど、どうもダイバは僕たちと予定が合わなそうでさ。それで、代わりと言ったら聞こえが悪いんだけど、快斗の予定が合えば来て欲しいなって思って……どうかな?」
「二十七日だろ? その日は空いてるよ。バイトも入れてない」
「本当? よかった〜」
俺の言葉に、恵太はホッと胸を撫で下ろした。
「でも、いいのかな? ダイバも行きたがってるんじゃ……」
俺は恵太に尋ねる。
「うん、行きたがってた。でもさ、よく考えたら今のダイバには小野澤さんがいるじゃない。だから快斗が来てくれた方がいいと思う」
ダイバには茉莉ちゃんがいる。その言葉に少しだけ、心が苦しくなる。
「それじゃあ、明日は風邪治るといいな」
「明日には全快だよ。賭けてもいい」
「あはは。ねえ快斗」
恵太は小さく笑うと、カバンを持って立ち上がる。
「今度、仮病の使い方を教えてよ」
本当に恵太は変わった。今、強くそう思った。少なくともこんな風に軽く冗談を言えるようなやつじゃない。
きっと、久留島高校の女の子と出会ったのがきっかけなんだろう。
「嘘が苦手な人は使わない方がいいよ」
もしかしたら、変わったのではなく、変えたのかもしれない。
「あはは。その通りだね。それじゃあ時間も遅くなってきたから僕は帰るよ」
なんにせよ、友達が変わることを、俺は素直に喜びたいと思う。
——きっと俺の青春は茉莉ちゃんだけじゃない。
そんなことを思った。
家の外に出て恵太を見送る。
「じゃあね!」
「また明日な」
心の底は自分でもわからない。だからこそ、本当は諦められないけど。
それでも新しい出会いを。
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