第20話 【ヒデさん2】
手元にある二本のコーラが私の歩幅に合わせて静かに揺れて、タプタプと緩やかな音を鳴らしている。
夏の日差しに暖められた風が私の帽子と戯れては過ぎ去ってゆく。
「こらこら。悪戯するのはやめてくれないか」
私は風に負けじと右手で帽子を押さえる。風は遊び足らないように突風を吹かせた。
「元気だなあ」
私は帽子が飛ばされないように気をつけながら、小さくささめく。
私は公園に向かう道すがら、少しばかり昔のことを思い出していた。
あの三人の子は、とても元気で気持ちのいい子たちであった。
私には子供と呼べるものがいない。いや、正確に言えば「知らない」のだ。
まだまだ私が若葉のように青かった頃、愛していた人がいた。その彼女の中に宿っていたのは、小さくて新しい命。
時代と言ってしまえばそれまでだが、ここでは語りきれない様々なことがあり、私はその子の産声を聞く前に彼女と生き別れてしまったのだ。
私と彼女の子。名は、
その百合子が健やかに育ち、生涯を共に過ごすパートナーを見つけ、子宝に恵まれていたとしたら。私にとって孫にあたる子供は、あの東屋で出会った三人と同年代である可能性が高い。
だからこそ、いるかも分からない自分の孫の影を、いつのまにか彼らに投影していた。快斗くんたちにあの歌を教えたり、一緒に卵焼きを食べたりして、短い時間だったが私なりに精一杯可愛がった。
そんな彼らが今も元気に、あの日のことを忘れて幸せに暮らしているのなら、私は嬉しい。昨日会った快斗くんのように、私のことを忘れていたとしても。
「なあ。……エリ」
懐かしい彼女の名前をそっと口にする。控えめなその声は風に乗って、私の知らないどこかへと消えていってしまった。
目的地の東屋には、彼らと出会った十二年前から、木でできたベンチが四つ。植物の藤も、相も変わらず屋根の上に青々と茂っている。
藤の花は五月が見ごろ。五月の東屋はそれはそれは綺麗な藤の花に彩られて、まるで別世界に来たような印象を受ける。
それでも私は夏の東屋が好きだ。なぜなら、気を遣わずに済むから。
藤の花は風に弱く、強風が吹こうものならその綺麗な花はすぐに散ってしまう。中には蕾のままで飛ばされてしまうような個体もいるらしい。せっかく綺麗なのに、なんともったいないことか。
——気を遣わなくていい? おかしなこと言うのね。でもね
あの日から変わらない、彼女の誇らしげな顔が脳裏に浮かぶ。花に詳しかった彼女は、私に様々なことを教えてくれた。
実は先程の藤の花の件は全て彼女からの受け売り。おっと、これは快斗くんたちには内緒にしておかなくては。
私は懐かしい思い出を回想しながら、雨風に晒されてずいぶんと痩せ細ってしまったベンチに腰掛ける。
コーラが入ったペットボトルの蓋に手をかけて、反時計回りにぐいっと回す。
少し硬い蓋はパキパキと音を立てると、ゆっくりと回転し始める。ある程度のところまで回すと、プシュ、と音が鳴って中身がブクブクと泡立つ。
それまでコーラにかかっていた圧力が減り、コーラの中に溶けていた二酸化炭素が飛び出しているのだ。
私はコーラが溢れないように蓋を少しだけ戻す。しばらく待って、もう大丈夫だろうというところで再び反時計回りに蓋を動かした。
……初めてコーラを飲んだ時は悲惨なものだった。
「コオラとかいう外国の嗜好品だと。かなり刺激のある飲み物だぞ」と、知り合いに譲ってもらったのが始まり。
当時コーラは大変珍しいものだった。だから私は誰にも内緒で、コーラを独り占めしてやろうと思っていた。
だが、私のコーラはエリに見つかってしまったのだ。
「あんたってそんな男だったんだ」と大袈裟に失望され、私は独り占めするのを諦めた。惚れた男の弱みだろうか、たとえ冗談だとしても、エリに失望されるのだけはたまらなく嫌だったのだ。
そしてコーラを二人で飲むことになり、「どうせなら私が気に入っている場所で飲みたい」と、エリに連れてこられたのがこの東屋がある場所。というわけだ。当時は東屋はなんてものは無く、急な坂の途中にあるただの野原だったが。
とにかく、やっとコーラなるものが飲める——。私は意気揚々と栓を開けた。
次の瞬間、
そしてコーラは私の手を離れ、重力に逆らうこともなく地面に落ち、あれほど楽しみにしていたものは全て土に還ってしまった。
だから私とエリの初めてのコーラの味は敗北の味。未知のものに触れた獣よろしく弄ばれ、そしてそれを深く知る貴重な機会を逃してしまったのだ。
——しまった! と焦る私を、エリは何を言うでもなくただただじっと見ている。
沈黙に耐えられなくなった私が割れたビンのかけらを拾おうとすると、突然エリは吹き出したように笑い、「宗秀もそんな顔するのね」と言った。
ビンを拾う手を止め、私は落ち込んだ。それこそコーラを落とした瞬間よりも。
情けない顔を見られた。それも好きな
—— 笑うのではなく、いつものようにからかってくれ。いや、いっそのこと落としたことを責めて欲しい。
そう思った私に対して、なんとエリは優しく微笑み「何落ち込んでんのよ。コオラくらいまた買ってくればいいじゃない」と慰めてくれた。
いつものように私をからかうこともせず、私が今までに見たことのない優しさで包み込んでくれたことに、感謝も忘れて私は首を傾げるばかりだった。
からかうのも不憫に思えるほどに落ち込んでいたのだろうか。それとも気を遣ってくれたのだろうか。エリに聞いておけばよかった。エリもコーラを飲みたかったはずだから。
「私も成長したろう……? いや、こんなことで胸を張るのもおかしな話か。ははは」
昔よりもずっと上手にコーラを飲む私と、未開封のコーラ。
エリはどこで暮らしているのか。百合子は元気か。そして、彼らは幸せか。
ガワと中身が少しジジ臭くなっただけで、私自身はきっと、エリに惚れたあの日から変わっていない。
そうさ。とっくに枯れ果てたと思っていた涙だって今もこうして、私の頬を伝って一筋の物語になっているではないか。
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