第10話 【快斗2】

 俺は昨日の放課後からずっと、自分でもわかるくらい、暗く沈んだ泥の底にいるような気持ちだった。

 クラスメイトの仲の良い人は、「どうした快斗? なんだか元気が無いな」なんて言ってくれたけど。

 でも、そんなのは気休めにしかならない。冷たい言い方でごめんよ。

 俺の気持ちは俺にしかわからない。わかってくれ、だなんて微塵も思っていない。むしろ今の俺の気持ちを悟られたら恥ずかしいじゃないか。

 ……失恋した、なんてさ。

 もう七月だからか、朝から日差しが強く照りつける。でも、あいにく俺の席は廊下側だから、太陽がどれだけ頑張っても俺の元には日差しは届かないんだけどね。

 今日は体育の授業が無いから、席を立ったのは移動教室の授業と、トイレに行った時だけ。

 今日に限って言えば、無駄な移動が無いのはすごいありがたかった。

 本当なら、昼休みもそうするつもりだった。

「快斗、昼メシ食べよう!」

 大きな体が俺の机にやってきて言う。声の主は恵太だ。

 恵太は俺の意見を聞く前に、俺の弁当を窓側の、茉莉ちゃんとダイバが座る場所まで持っていってしまった。

「おーい!」

 恵太が手を振る。

 元気な恵太を無視することができなくて、俺は立ち上がる。

 茉莉ちゃんは俺と入れ違うように廊下側へ行く。そして俺の座っていた場所で、仲の良いメグと諏訪さんの三人でご飯を食べる。……はずだった。

「快斗くん? 元気ないよ?」

 どういう風の吹き回しか、茉莉ちゃんは自分の席に座ったまま。俺が窓際に行くのと同じように、メグと諏訪さんも窓際に来ていた。

 ——俺に元気がないのは、誰のせいだと思ってるんだよ。笑う茉莉ちゃんに、心の中で文句を垂れる。

 それでも、俺はこの笑顔が好きなんだよな。

 ズキッ、と心が激しく鼓動を打つ。体の左側が熱くなる。

「ああ、ごめん。なんか今日眠たくてさ」

 うまく笑えているかわからない。それでも、俺は応える。

「わかる。体育の授業が無い日だと逆に眠たくなるよね」

 メグが弁当を広げながら俺の言葉に同意してくれる。

 茉莉ちゃんは「そっか」と言いながらお昼ご飯を食べ始めていた。

 そっか、か。やっぱり俺には、興味が無いのかな?

「そういえばダイバくん、サキちゃん先生に呼び出されていたけど大丈夫かね?」

 これは諏訪さんの発言。ダイバという単語に、もう一度心臓が跳ねる。

「さあ? ダイバはサキちゃんに目をつけられてるからなあ」

 恵太が答える。

「でも、サキちゃんはダイバのことが嫌いなわけじゃないと思うよ」

 茉莉ちゃんが言う。

「あ、それは私も思った。……どっちかと言うと、好意……みたいな?」

「あ、メグもそう思う?」

「なんとなくだけどね」

 俺が会話に参加しなくても、恵太たち四人は大いに盛り上がる。

 周りに人がたくさんいてもこんなに寂しくなることを、生まれて初めて感じた。

 風がガラスを揺らす。カタカタ音が鳴る。

「ダイバおかえりー!」

 席を立とうとした俺の耳に茉莉ちゃんの声が届く。

「よう。今日はミッチたちもいるんだ。珍しいな」

 ダイバの声で、昨日の放課後を思い出す。

 ドス黒い何かが俺の中に湧き上がって、臆病な俺は自分が怖くなる。

(ダイバは友達だろ?)

 自分に言い聞かせる。

 そう。俺はダイバの友達。幼稚園の頃からの幼馴染。一緒に遊んで、ケンカもたくさんしたけど、その分たくさん笑った。

 ダイバは俺の……。そして、茉莉ちゃんはダイバの……。

 視界がぐにゃりと曲がる。三半規管が狂ってしまったようだった。こめかみのあたりがズキンと疼く。

 みんながダイバを交えて話し始める。俺はみんなが何を言っているのかわからないまま、適当に相槌を打ち続けた。

「いや、普通に勉強を教えてただけだよ? 特に進展とかそういうのはなんもないし!」

 進展はない。そう聞いて、安心すると同時に、俺は泣きそうになる。

 今はそうだ。なにも進展はない。それでもいつか二人は、俺の手が届かないところに行ってしまうのだろう。

 俺はダイバを見る。ダイバはずっと窓の外の、どこか遠くを眺めている。

 茉莉ちゃんの方を見ると、顔を真っ赤にしながらメグや恵太の質問をかわし続けている。

(茉莉ちゃんが困っているのに、なんでダイバは助けてやらないんだ。いっそのこと、付き合ってるって言ってくれれば、俺だってこんなに悩まなくて済むのに。)

『キーンコーンカーンコーン!』

 けたたましくチャイムが鳴り響く。

「——というわけなんだけど快斗はどうかな? 今日って用事ある?」

「え?」

 恵太の声。それだけじゃない。メグや諏訪さん、ダイバや茉莉ちゃんまで、みんなが俺を見ている。

「だから、今日の予定。久留島まで着いてきて欲しいんだけど……ダメかな?」

「ああ……今日の予定か」

 今日の予定……そうだ。今日はバイトがある。だから今日は行けない。嘘じゃない、本当さ。

「ごめん。今日はバイトがあるからちょっと無理かな」

 何も聞いていなかったから、バイトっていう理由があって助かった。

「そうか、バイトか。なら仕方ないな」

 恵太は寂しそうな顔でダイバの方へ向いた。

「ダイバは?」

「今日は残念ながら……」

「う、嘘だろ? 頼むよ、僕一人で久留島に行くのはちょっと勇気がいるから」

「——暇です!」

「……おい、やめろよダイバ。マジで焦ったよ」

 恵太とダイバがじゃれあう。

「ね、快斗くん。もしかして……体調悪かったりする? ほら、今日は暑いし熱中症とかあるからさ」

 メグが下を向いている俺の顔を覗き込むようにして言った。

「確かにメグの言う通りかも。大丈夫?」

「え? あ、いや、そんなことないよ。熱中症も大丈夫だよ。ははは……」

 長い髪がサラリと動く。茉莉ちゃんの目は乾いた笑い声を上げる俺をじっと見ている。

「ならいいんだけど。でも、もし何かあったら保健室行ったほうがいいよ」

 やめてくれ。俺を心配なんてしないでくれ。俺はこれ以上、君を好きになりたくないんだ。

 地球が回る。風が吹く。俺たちの教室のガラスを揺らす。

 夏が来る。暑くなる。窓を締め切った教室は完全な箱になって、俺たちの青春を包み込む。

 エアコンの風が茉莉ちゃんの髪を僅かに揺らす。君の笑顔と優しさが、俺を苦しめる。

「ごめん、トイレ行ってくるから。二人とも心配してくれてありがとう。それと……」

「それと?」

「いや、ごめん。なんでもない」

(茉莉ちゃん、ダイバとお幸せに。)

 最後の言葉は胸にしまって、俺は適当な嘘をつく。そして俺は、俺以外の青春が詰まった小さな箱の中から飛び出した。

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