第8話 【ダイバ5】
七月七日。時刻は十二時を回ったばかり。校舎が昼休みで浮かれている中、俺は職員室にいた。
目の前には崎山先生がいる。先生はタイトなスカートから伸びる綺麗な足を定期的に組み変えながら、俺が提出したプリントを眺めていた。
職員室の机の配置を観察したり、俺たちがいる教室と違ってしっかり効いている冷房を羨ましがったりして、このどうしようもない居心地の悪さをごまかしていた。
最初は提出してすぐに退室しようと思っていた。が、先生の「すぐに採点するからそこに座ってちょっと待ってな」という言葉が俺の退室を許さなかった。やはり崎山先生は苦手だ。
「ふんふん。これもよくできてる。この解答も悪くない……」
メガネの位置を調節して、崎山が頷いた。
「ダイバ! たいへんよくできました」
先生はハンコに書いてあるような文言で俺を褒める。いつものように俺をからかっているのだろう。
「答えを見る限り、一人で解いたわけじゃなさそうだけどダイバは本当に偉いよ」
そう言うと先生は椅子ごと俺に近づき、俺の髪にそっと手を触れた。程よい香水の香りにドギマギしながら身構えていると、先生の手が急にわしゃわしゃと動いて俺の髪を乱していった。
「いや、ちょっと! なんか恥ずかしいんでやめてください」
「恥ずかしいだと〜? ならもっと褒めてあげようかな」
「ちょっ! 褒めるとしてもさすがに雑すぎますって!」
「はっはっは! まさかダイバがちゃんと一日で仕上げてくるとは思ってなくてね!」
しばらくの間俺の髪を乱した先生の手は次第に穏やかになり、最後は優しい手つきで俺の髪を軽く整えたあと、静かに離れていった。
「……で? 誰に手伝ってもらったのかな?」
「え?」
椅子を元の位置に戻して、また足を組んだ先生が笑うのをやめて言った。先生の目が一段と鋭くなったような気がする。
すぐに、一人で解かなかったことを怒られたら素直に謝ろう、と決めた。
「さっきも言ったでしょ? 一人で解いたわけじゃないだろうって。答え方というか、答えの導き方から察するに、小野澤か伊田川あたりかな? 国語が得意なやつの解き方だ」
「そんなことまでわかるんですか?」
あまりにも鋭すぎる先生の推理に、俺はごまかすこともせずに尋ねてしまった。
「あ、ということは図星だな? さては小野澤か?」
「え? いや、まあ……」
これもまた、変にごまかしても先生には見破られそうな気がして、俺は濁しつつも否定はしなかった。
「はっはっは! 青春だな」
先生は大きな声で笑うと、俺のそばに寄り、ポンと軽く頭を叩いた。
「あの、誰かと解いたことは怒らないんですか?」
「ん? 怒らないよそんなことで」
俺の心配をよそに、先生は笑いながら言った。
「誰と解こうが、答えが間違ってようが、まずは問題に取り掛かることが大事だ。私の無茶振りにダイバはちゃんと応えてくれた。それだけで、先生としては嬉しいんだよ」
先生の言葉に、なぜかはわからないけど、少し泣きそうになる。
「私は先生だから立場的にアウトだけど、気分的にはダイバのことを抱きしめてあげたいからな」
「いやいや、そんな……」
「あ、どうせならダイバが私に抱きついてもいいんだよ? 生徒から来たならそれを私が受け止めても問題にはならないだろうし」
顎に手を当てて少し考えたあと、先生は俺の方に向いて、「ほら」と両手を広げた。
「えっ?」
「……なーんて、冗談だよ。顔が真っ赤だぞ?」
俺の反応に、先生が膝を叩いて笑う。
「今のは酷いですよ」
「ま、とにかくだ。これで普段の授業もちゃんと受けてくれれば、私としては何も言うことはないかな」
いい雰囲気の中でも、先生は抜け目なく釘を刺してくる。
「う、善処します」
「本当かな?」
「一応言うとですね、俺は先生の授業が退屈だからぼーっとしてるわけじゃないんですよ」
「へえ? じゃあどうしてなのかな?」
「いや、その……すみません。理由は俺でもわかりません。ただ集中ができないんです。どうしても」
「理由はわからない、か。まあでも、ダイバは根は真面目だからな。ちゃらんぽらんな理由じゃないとは思ってるよ」
先生は俺の目をじっと見て言った。
やっぱり苦手だ。特にこの視線が。このまま見つめられていたら、俺の知らない何かを見破ってしまうんじゃないかと思わせるような目。
俺は思わず視線を逸らす。
「とは言え、来年は私がダイバを受け持つとは限らないからな。特に次は三年になる年だろ? 受験にも関わってくるかもしれないからな。今のうちに集中できるように改善できるといいんだけど」
視線を逸らした俺の意図を汲んだのか、気を遣ってくれただけなのかはわからないけど、先生はいつになく真面目に、そして優しい口調で言った。
「……と、ごめんなダイバ。貴重な昼休みを潰しちゃってな」
先生が腕時計を見る。
「いや、大丈夫です」
俺も職員室の壁にかかる時計を見る。時刻は十二時十五分を指していた。
「ダイバ、頑張りなよ。困ったら頼ってくれていいんだからな。ダイバは私の大切な教え子だからね」
椅子から立ち上がった俺に、先生は手を振りながら声をかけてくれた。
「ありがとうございます。頑張ります」
俺は少し笑って頭を下げる。すぐに照れ臭くなって、「失礼します」と言って早歩きで職員室を出た。
教室に戻る最中も、先生の「頑張れ」は俺の心を掴んで離さなかった。国語の授業よりも大切な、別の何かに向けて送られた言葉のような気がしたから。
もしかしたら、先生も俺も、心のどこかで感じていたのかもしれない。
今日は俺の青春、人生の風向きをガラリと変えてしまうような、忘れられない一日になるってことを。
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