第7話 【快斗】

 放課後の教室に二人きり。——ああ、そうか。これが青春なんだろうな。

 他人事のようにそんなことを思う。

 俺は自分でも驚くほど冷静だった。取り乱すことも、その場から立ち去ることもせず、ただひたすら教室の二人を眺めてた。

 もしも二人が廊下の方を向いたら? きっと俺がいることがバレてしまうだろう。それでも二人が俺の方を見ることはない。そんな気がしていた。

 そう。これは二人だけの世界。教室はただそこにあっただけの箱。俺はその箱の外からじっと、何もせずに眺めているだけ。きっと箱が教室じゃなくて飲食店でも、俺は同じことをしていただろう。

 ——わかってたんだ。高校一年生の時からずっと。

 彼女はのことが好きだって。が彼女のことをどう思っているのかはわからないけど。

 俺の机は廊下側の列の後ろから二番目。

 二人の机は窓際の風がよくあたる場所にあって、夏だというのに青い春の中にいる。

「ここはね、こうやって解くんだよ」

「なるほどなあ。あ、じゃあここも現代語訳だと、これと同じ訳し方で良いってことか?」

「そう。飲み込み早いなあ」

「いや、教え方が上手いってことにしておこう。というか、やっぱり国語得意なんだな」

「えへへ、ありがと。わたしのこと、見直した?」

「いや、俺は前からずっとそうだろうなって思ってたぞ?」

「なにそれ。絶対嘘じゃん」

「バレたか」

「もう。教えてあげないよ?」

「わかった。俺が悪かった」

「わかればよろしい」

 きっと今なら、こっそりいけばバレないと思う。思うんだけど、バレた時のことを考えると、俺の足が廊下と教室の境目を跨ぐことを拒絶してしまう。

 ——それならいっそのこと、自分から話しかければいいのに。

 そう思って、俺は心の中の勇気を絞り出す。が、カラカラに乾いた俺の心はいくら絞っても、何も出てきやしなかった。

 俺とは友達。彼女はのことが好き。そして俺は……俺は、二人の友達。ただ、それだけ。さらに言えば俺は二人の邪魔をしに来たわけじゃない。教室に忘れ物を取りに来ただけ。

 ——ただ、それだけさ。


(あれ? 二人とも何してるの?)


 口を開けて動かした。声は一切出なくて、はたからみれば、陸に上がった魚みたいに空気を求めてパクパクしているだけだったと思う。


(お、快斗か。何って……勉強、だけど。)


(うん。快斗くんこそどうしたの?)


(あ、いや、忘れ物しちゃってさ。)


(そっか)


(まったく、そそっかしいな快斗は。)


(いいだろ別に。……勉強って、二人だけでしてるの?)


 ——やめろ。


(うん。それがどうかしたの?)


(いや、なんていうか……。)


 ——やめてくれ。それ以上はいけない。


(二人きりってまるで恋人みたいだなって思ってさ。)


(あれ? 快斗には言ってなかったっけ? 実は俺ら付き合ってる——)


 ——やめろ!


 虫が這うような感触と共に、ひんやりとした何かが腹の底から湧き上がる。それは一瞬で俺の全身を包み込み、こめかみのあたりで炭酸のように弾けて消える。

 今のは全て、臆病な俺が作り出した妄想。かの孔子が見たという胡蝶の夢とは違い、どちらが妄想か現実か、はっきりしてる。

 現実は今、目の前で勉強している二人。そしてそれを外から眺める俺。ただそれだけ。二人は付き合っているとは限らないし、だとしても俺は明日からもずっと、何も変わらず二人のクラスメイト。

 好きな揚げパンを食べて、恵太やクラスの友達とバカ話をして、放課後はバイトと勉強に精を出す。

 ただ、それだけ。

「ね、あのさ、どうして国語の授業中だけボケッとしてるの?」

「うーん。なんでだろうな」

「もうあと一問でプリント終わっちゃうけど、やっぱ国語苦手じゃないと思うな」

「そうか? 俺一人だったら絶対こんなに早く解けてないぞ」

「だとしてもわたしはすごいと思うよ」

「なんか、素直に褒められると変な気分になるな」

「なにそれ。わたしだってすごいって思ったら素直に褒めるもん」

「そうか」

「なんで苦手意識なんか持ってるんだろうね?」

「うーん、なんか過去に嫌なことがあったのかもな」

「なんか他人事みたいな言い草だけど、まあ、そっか」

「……あのさ、明日なんか奢ってやるよ」

「へ?」

「購買にあるやつ、一つだけだけどな」

「本当に?」

「おう。まあ、放課後に付き合ってもらってるんだし、そのくらいはな」

「それなら……わたしも、ちょっとお礼したいことがあるというか……その、えっと」

「ん?」

「今度さ、二人きりでどこかに遊びに行かない?」

「え?」

「あ、嫌ならいいの! そうだよね。予定とかあるよね」

「嫌だなんて言ってねえよ。いつ?」

「えっと、今日が七月六日でしょ。夏休みに入るのが二十一日からで、部活の休みが二十七日にあるから、二十七日とかどう?」

「二十七日な。月曜日だろ? 多分大丈夫だな」

「え、いいの?」

「おう」

「やったー!」

「どこに行くんだ?」

「いや、特に決まってないかな。逆に行きたいところとかある?」

「行きたいところか……。さすがに急には浮かばないな」

「まあ、それはそうだよね。でも時間はたっぷりあるからさ、どこか行きたいところがあれば教えて」

「そっちもな」

「うん。でも、その、わたしはどこでもいい……というか」

「どういうこと?」

「とにかく! わたしはお礼がしたいの!」

「変なやつ」

「うわ、一番言われたくないかも」

「はいはい。どうせ俺は変なやつですよ」

 その後も会話が続く。

 彼女はの方を見ていて、俺からはどんな表情を浮かべているのかまったくわからなかった。でも、声を聞けばわかる。

 きっと、俺には見せたことのないような笑顔がそこにはあるんだろうな。

 俺には忘れ物があったはずなのに。のように全てを忘れてしまったわけではないのに、あのときと同じように何もできずにただ教室を立ち去るばかりだった。


 ——忘れるってことは悲しいことだけど、必要なことなんだよ。


 昔教えてくれた言葉を脳内で再生する。

 が教えてくれたことは全部覚えている。本当は忘れたかったけど。

「あなたの言う通りです。忘れるってことは必要なことでした。

 ……でもね、覚えている方も悲しいよ」

 階段を降りて踊り場で振り返る。目が痛くなるようなオレンジが俺の視界を奪う。

「俺もみたいに全部忘れたかったな。そしたら俺もみたいに……」

 彼女と仲良くなれたかも。

 大事な部分は口には出さずに独りごちたあと、踊り場にある大きな鏡に映った自分がひどく滑稽に思えて、乾いた笑いが止まらなくなる。

 ——惨めだ。

 泣きそうになって、俺はまた歩き始める。

 彼女には幸せになってほしい。だから彼女が笑顔でいられるなら、と一緒にいることが彼女の幸せなら、俺は喜んでピエロになろう。

「本当は俺が……いや、もうやめよう」


 俺には好きな人がいた。

 その人は優しくて、楽しいことが大好きで、いつも笑顔で明るい。俺はその笑顔が大好きだった。

 一体誰なんだ、って? それは教えられないんだ。今さっきその人のことを諦めたからさ。

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