第5話 【ダイバ4】
「やっぱりダイバだ。まだ帰ってなかったんだね。何かあったの?」
声の主は茉莉だった。
「ああ、ノート提出してたんだけど、それとは別にちょっと崎山先生と話してた」
「サキちゃん? あ、そっか。ダイバってサキちゃんから目をつけられてるもんね」
茉莉が笑う。
目をつけられているというよりも、からかわれている、というほうが正しい気がする。まあ、どちらにせよ胸を張れる対応ではないことは確かだ。
「勘弁して欲しいよ。俺、崎山先生のことがどうも苦手なんだよなあ」
そう、先生のことは決して嫌いではない。ただ苦手なだけ。だから俺は悪口にならないように、後頭部をかきながら軽く言う。
「え、苦手なんだ。サキちゃんはダイバのこと好きな気がするけどな。……あ、もちろん生徒として、って意味でね」
そう言う茉莉の表情は、意地悪をしているでも、からかっているでも、嘘をついているでもない。どう表現していいのかわからない不思議なものだった。
「好き……か。もしそうなら、こういうことはしないで欲しいよ」
俺は手に持っていたプリントをひらひらと振る。ペラペラな紙がなんとも間抜けな音を立てた。
「何それ?」
「さっき崎山先生に渡されたんだよ。明日までにやってきな、ってさ」
「えー、本当に? ちょっとプリント見せて」
茉莉が両手を差し出す。俺は茉莉の手にプリントを差し出す。俺の手の甲と茉莉の人差し指が、ほんの少し触れる。
「へー。あ、この問題も載ってる。ふーん」
茉莉は手と手が触れたことは気にも留めていない様子で、しばらくプリントを眺めていた。
「……なーんだ。簡単じゃん!」
少し難しい顔をした後、プリントの最後の問題まで読み終えた茉莉はパッと顔を上げてそう言った。
「え、簡単? 嘘だろ?」
「うん。このくらいなら、十五分もあれば解けるよ」
茉莉から返されたプリントを改めて眺める。今の俺の学力では、十五分で解けるような気が全くしなかった。
「もしかして、茉莉って国語得意なのか?」
「……まあ、一応」
「テストの順位は?」
「う……言わなきゃダメ?」
茉莉の顔が少し赤くなる。
「俺も今日の昼に数学の順位教えたしな。これであいこってことにしよう」
俺の言葉に、茉莉は一回大きく息を吐いて「わかった」と言った。
「……三位」
いつもの元気いっぱいな茉莉とは対照的な小さな声と、控えめに伸ばされた三本の指。俺の聞き間違いではなく、確かに三位だった。
「え、三位? マジで?」
「うん」
念を押す俺に、茉莉は小さく頷く。
「すげえ! 茉莉、すごいじゃん!」
「ありがとう。……でもねダイバ、ちょっとだけ声が大きいよ」
周りを見て、茉莉が人差し指を自分の口元にあてる。
「あ、悪い。いやでもさ、三位はすごいよ。そんな恥ずかしがることじゃねえって」
「……なんか恥ずかしくてさ。自慢してるって思われちゃうのも嫌だし」
「何言ってんだよ。三位のやつが自慢できなかったら国語のテストが百六十二位の俺なんて、カスみたいなもんだぞ?」
「うーん……そっか。逆に嫌味みたいになっちゃうのかな?」
「そうそう。自分から言いふらすのはちょっと違うと思うけど、人から聞かれた時くらいは胸を張っていいと思うぞ」
「そっか。……ダイバってさ、なんだかんだで優しいよね」
「なんだかんだってのが少し引っかかるけど、まあな」
「……ていうか、そんな順位だったんだ」
少し笑ったあと、思い出したように茉莉が言った。
「う、覚えてたか」
「もちろん」
「……そうだよ。俺は国語が苦手な男子生徒ですよ」
今度は俺が恥ずかしくなって、ヤケクソになって答える。しかも俺の恥ずかしさは茉莉のような謙遜から来るものではないから、なおさらだ。
「そんな拗ねたような言い方しなくてもいいじゃん」
「いや、まあ、三位って聞いたあとの百六十二位だからさすがにな……」
「わたしもそんなに意地悪じゃないから、人のテストの結果を笑ったりなんかしないし、むしろすごいって思ってるんだから」
「ん? どういうこと?」
「あ、今のは語弊があるか。あのね、わたしが言いたいのは、ダイバって本当に国語が苦手なのかな? ってこと」
「へ?」
茉莉の放った言葉がさっき俺が崎山先生に言われたことと酷似していて、俺は思わず変な声を出してしまった。
「だってさ、国語のテストは文系とか理系とか関係なく全生徒が受けてるんだよ? わたしたちの学年の人数って、確か……」
「一クラスが四十人いないくらいで、それが十クラスあるから、大体三百五十人とか三百六十人くらいだと思う」
「あ、そうそうそのくらい。だからね、ダイバの国語の成績は半分より上ってことになるんだよ!」
茉莉に言われて初めて気がついた。
「まあ、そう考えれば、毛嫌いするほど苦手ってわけではないのか……な?」
「そうだよ。だからダイバも、サキちゃんの授業をしっかり受けようよ。わたしのノートなら、いくらでも貸すからさ」
茉莉が人差し指を俺に向ける。茉莉なりに俺のことを励ましてくれているのか、「どうだ!」と言わんばかりのその顔が、俺の放課後の暗い気持ちを吹き飛ばした。
「え、なんで笑ってるの?」
俺の笑みに茉莉が困惑する。
「いや、今の茉莉のドヤ顔を見てたらなんか知らないけど元気が出てきたんだよ」
「え、わたしドヤ顔してた?」
「うん。謎が全て解けた名探偵みたいな感じだったぞ」
「なにその例え。でも、ドヤ顔しちゃってたかあ……」
「ドヤ顔、悪くなかったぞ」
「ドヤ顔を褒められてもなあ。なーんか、素直に喜べないんだよね」
茉莉が目を閉じて腕を組んで「むむむ……」と眉間にシワを寄せた。
「とにかく、ありがとうな。茉莉」
そんな茉莉を見て、俺はごまかすこともせず、しっかりと目を見て気持ちを伝えた。
暗い気持ちを払ってくれたということが、俺の中で、俺が思うよりもずっとありがたく感じたから。
「う……なんでそんな素直なの。なんかいつものダイバと違う気がする」
下を向いて茉莉が言う。なんで下を向いてしまったのかはわからないけど、嫌な気持ちになってはいないことだけはわかる。
「なんだよ、俺はいつだって俺だぞ」
「……変なの。でも、嬉しいかも」
「そうか。なら良かった」
「うん。……で、結局そのプリントはどうするの?」
茉莉が俺の右手を指差す。
「あ、忘れてた。うわ、どうするかコレ」
「……今日のこれからの予定は?」
「え?」
「だから、放課後の予定。もし暇なら、ダイバがよかったらだけど……わたしが教えてあげてもいいよ……?」
茉莉がグッと拳を握って俺の目を見る。
見つめ合うのが恥ずかしくなって、俺の視線はプリントに逃げる。逃げた先には、わけのわからない問題が散りばめられていた。
「……あ。茉莉の予定はどうなんだよ? だって今日って月曜だろ?」
「自主練は色々あって今日は中止になったの! で、どうするの? やるの、やらないの?」
茉莉が少し背伸びをして、俺に顔を近づける。フワッといい匂いがして、俺は今日の国語の授業のときと同様にドキドキしてしまう。
茉莉は俺のことをいつもと違うと言ったけど、俺からしたら茉莉の方が違うような気がする。少なくとも昨日までは茉莉に対して、こんなにドギマギすることなんてなかったのに。
「やります。……お願いします」
俺は頷く。少し間を置いて、軽く頭を下げた。
「よろしい。じゃあ、教室に行こ?」
茉莉が階段の方へ歩き出す。俺もそれに倣って歩き始めた。
いつも使う白い階段は、窓からはみ出る夕日に照らされてオレンジ色に染まっていた。太陽の光が差す角度が変わるだけで景色がまるで違うものになることに、どこか心の遠いところで感心していた。
先を歩く茉莉の長い髪と制服が、階段と同じオレンジに染まる。楽しそうに階段のステップを駆けるその姿に、歩みを止める。
俺が立ち止まったことに気づいた茉莉に手招きされるまで、俺は踊るオレンジを目で追っていた。
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