第3話 【ダイバ3】

 数学の小テストという山を超え、眠気という谷を渡った先には、面倒事が待っていた。


 六時間目が終わった途端、教室にどこか緩んだ空気が流れる。昼に恵太が「ヤバイ」と言った瞬間からずっと張り詰めていた糸が解けたのだ。

 俺も同じだった。数学は俺の得意な科目なだけあって、小テストの出来はかなり良かった。

「今日の小テストはざっと見た感じ、とてもいい出来だよ。みんなよく勉強しているね。お陰で用意してた課題がただの紙切れになっちゃったよ」

 武田先生のジョークに、小テストを乗り越えた俺たちは笑った。自分の教え子達がしっかり勉強している、と思い込んでいる武田先生も笑っていた。

「それと、今日は前から言っているようにノート提出の日だからね。今日の日直には悪いけど、ノートを集めて職員室まで持ってくるように」

「はーい」とクラスが答える。それを見た武田先生が満足そうな表情で教室を出ていく。

「ほい、ダイバ」

 クラスメイトのがわが俺の机の上に数学のノートを置いた。

「へ?」

 俺の声は聞こえなかったのか、伊田川は「頼んだぜ……」と言ってどこかへ去ってしまった。

「よろしく〜」

 前の席から数学のノートがやってきた。

「はい、プレゼント」

「お願いしまーす」

「ダイバくんごめんね〜」

「悪いなダイバ」

「持ってけドロボー」

 四方八方から俺の元へノートが届けられる。

 持ってけドロボーと言ったやつを探しているうちに、今日の日直が俺であることを思い出した。

「ダイバ、日直頑張れ!」

 恵太がグッと拳を握る。その拳にさっきまで数学のノートが握られていたことを考えると、恵太の言葉はあまり励みにならなかった。

「そうか、恵太は部活か……」

「うん。それじゃ、また明日!」

 放課後だというのに元気な声で言うと、恵太は教室を出ていった。

「はい。ダイバ」

 右隣の席からノートが手渡される。

「ツイてなかったね。ファイト」

 俺の肩をポンと叩くと、茉莉は仲の良い子と談笑しながら教室を後にした。

 普段は担任の先生や暇を持て余したやつが何人か残って駄弁だべっているのだが、今日に限ってクラスメート達は全員、三々五々に帰ってしまった。

 残ったのは俺とクラス全員分の数学のノートだけ。

「……さっさと提出してさっさと帰ろう」

 放課後の喜びで満ちている廊下とは対照的に、抜け殻と化した教室に一人いる俺。

 カバンを背負い、ノートを抱える。中途半端に閉まっている扉をスライドさせて廊下に出る。

「あれ、ダイバ? 何してんの?」

 廊下で騒いでいた別のクラスの友達が俺に寄ってきた。

たけじいのノート提出手伝わされてんだ」

「うわ、それめんどくせえな。え、目が合ったから手伝わされたとかそんな感じ?」

 俺の抱えたノートを眺めて渋い顔をする。

「日直なんだよ俺」

「だからか。でも職員室に出すだけだろ?」

「まあな。でも、ここ四階だろ? 職員室が二階にあるから面倒なんだよな」

「わかるわ。ノートって意外と重たいしな。ていうかそもそも職員室に入るのがめんどくせえわ。ノックして、名乗って、要件伝えてさ」

「それ。本当にそれ」

 ここで俺のノートを抱える腕が悲鳴をあげ始めた。

「……悪い、ちょっとノート置いてくるわ」

 友達は俺の顔と口調で察してくれたのか、すぐに会話を切り上げてくれた。

「あ。そりゃそんだけノート持ってりゃキツイよな。呼び止めてごめんな」

「いやいや全然。今ちょっと虚しくなってたからむしろありがたいよ」

「虚しい……?」

「いや、なんでもない」

「そうか。……あ、今日の夜暇だろ? 駅前のラーメン屋行こうぜ。伊田川と四組のアイツも誘っとくから!」

「わかった! また連絡してくれー」

 ノートを膝で支えて持ち直して、友達に背を向ける。

 今日の夜はラーメン屋に行く、という予定を何度か脳内で復唱しながら、階段へと向かった。


「失礼します。二年三組の——」

「お、ダイバじゃないか。職員室に来るなんて珍しいな」

 名乗るよりも先に、俺を見つけた崎山先生が出入り口までやってくる。

「何の用……って、ノート提出か。殊勝な心掛けだね。数学ってことは武田先生かな?」

 メガネ越しに崎山先生の目が俺を見る。先生と目が合わないように、俺はスカートからスラッと伸びる先生の足に目をやる。

 数学のノートを見ただけで全てを察するところもそうだけど、俺はどうも崎山先生の視線が苦手だ。

「はい。武田先生はいますか?」

「いや、先生は今席を外していてね。とりあえず中へ入りな。武田先生の机はそこだよ」

 崎山先生が出入り口のすぐそばにある机を指差した。

「その量のノートをずっと持ってても辛いでしょ。机の上に置いとけば大丈夫。私が後で先生にちゃんと言っておくから。ダイバは武田先生に文句を言いながら嫌々ノートを持ってきましたよ。ってね」

 言いながら、崎山先生の口角が上がる。

「どうも——ってなんでですか! どこからどう見ても先生の言うことをしっかり聞く善良な生徒なのに」

 俺の言葉を受けて、先生の顔がクシャッと歪む。俺が崎山先生のことが苦手じゃなくて、国語が得意で、年上好きなら思わず惚れてしまうような眩しい笑顔だった。

「はっはっは! 相変わらずいいツッコミだな。安心しなって。悪くは言わないからさ」

「ちゃんとノート持ってきてる時点で悪く言わないのは当たり前なんですよ」

「ごめんごめん。ダイバがこういう手伝いをしてくれること自体珍しいから、ついな」

 大笑いしたせいでズレたメガネを戻して、崎山先生はまたいつもの目で俺を見る。

「まあ、どうせ日直だった、とかそんな感じでしょう? それで、小テストが終わったばかりだってのに武田先生に手伝わされて……」

「……おっしゃる通りです。ていうか、なんで今日の小テストのこと知ってるんですか?」

「この前武田先生が言ってたんだよ。自信作ができました、ってね」

「なるほど」

「……で? 出来はどうだった? まあ、数学得意って聞いてるから多分大丈夫だと思うけどね」

 崎山先生は言葉の一部に力を入れる。拗ねたような、笑っているような目で俺を見ているあたり、また俺をからかっているんだろう。

「まあ、九割くらいは取れてると思いますよ」

「九割もか、すごいな。

 ……私の授業もそれくらい熱心に取り組んでくれたらな」

 拗ねたような目をしていた理由がわかった。

「いや、あの、すみません。どうも国語だけは苦手なんですよ」

「だからやる気が出なくて、ずっと窓の外を眺めてるんだ? それに、去年なんて伊田川と二人でずっと寝てたよね?」

「あ、いや……本当にすみません」

 退屈だ、と思っていた心は先生には全部お見通しだったのかもしれない。俺は素直に頭を下げた。

「絶対とは言えないけど、ダイバはそのどこから湧いてくるのかわからない苦手意識を改善すれば、国語もできるようになると思うんだけどな」

「そうですかね……」

「うん。私はそう思う。今日だって現代語訳をさらっとやってのけたじゃないか」

 現代語訳、と聞いて俺は今日のあの不思議な感覚を思い出した。

掛詞かけことばも知っているし、君と日常会話をしていても引っかかる部分もない。ダイバは語彙力自体はちゃんとあるんだよ。下手したら同年代の中でも多い方かもね」

「いや、今日のはたまたまというか……なんというか」

 よくわからないけど昔誰かに教えてもらったかもしれない。とは言えず、曖昧な言い方になってしまった。

「たまたまねえ。それであんなにちゃんとした回答になるのかな?」

「……もしかしたら、昔何かの本で読んでそれで覚えてたのかもしれません」

「……今はそういうことにしておくか。でも、その和歌だけ覚えてるってことは、それはダイバのお気に入りってことなのかな?」

 先生の問いに、俺は考える。

 どうしてこの和歌を詠むとき限って不思議な気持ちになるのだろう?

 どうして俺はこの和歌を知っているのだろう?

 どうして今、俺はこの和歌を忘れていた自分に苛立っているのだろう?


 ——忘れるってことは必要なんだけど、悲しいことなんだよ。


 また、渋い声が俺の脳内で再生された。


 ——どうして悲しいんですか?


 幼い声が聞く。声の幼さとは裏腹に、とてもしっかりしていて賢い子供だな、という印象を受ける。


 ——明日幼稚園に行ったとき、君のお友達が君のことを忘れていて、一緒に遊んでくれなくなったら……悲しいよね。


 ——うわー、それってすごい悲しいなあ……。


 今度は元気だけが取り柄という感じの幼い声。

 続いて、幼く、舌足らずな女の子の声がした。


 ——あたしなら泣いちゃう。


 ——でもね、僕たちは忘れるから生きていけるんだよ。嫌なことをずっと覚えていたら、それこそ泣いてしまうな。


 渋い声が空を見上げる。

 風に吹かれて揺れる葉っぱが夕焼けのオレンジに照らされる。とても居心地が良い場所だ。


 ——難しくてわかんねえや。


 ——ぼく、なんとなくわかるかも。


 ——え、ほんとかよ!


 ——ははは。焦らなくても、いつかわかるよ。

 忘れることは悪いことじゃない。忘れられても仕方がない。ただ、僕は、僕だけはずっと忘れない。君たちとこうして過ごす時間も、彼女との時間も……。


 渋い声がどんどん遠くなる。


 ——君たちも、忘れたくないって思ったものを大切にしなさい。


 どこからか風がやってきて、俺の服と遊ぶようにまとわりつく。

 遊びに飽きたように風は止んで、同じように渋い声も幼い声も、どこか遠くへ行ってしまった。


 そうだ。俺はこの和歌を、忘れたくないって思ったんだ。


「ダイバ?」

 急に黙りこくった俺を崎山先生が心配そうに見つめる。

「俺、この和歌が好きだと思います」

「……そうか」

 崎山先生の目が優しくなる。今だけは、俺をからかうようなことは絶対しないと思えた。

「なら、これをあげる。明日までに解いてきな」

「へ?」

 どこから出したのか、崎山先生が一枚のプリントを俺に渡す。

「これ、なんですか?」

「ん? これは『ダイバの国語を伸ばそうプリント』だよ」

「なんですかそのネーミング」

「まあ、そこは突っ込まない。前から思ってたんだよな。ダイバはちゃんと国語と向き合って克服すればいぬいみたいに全科目いい成績取れるってね」

 そう言うと、崎山先生は腕を組みながらうんうんと頷く。

「実はね、国語がある程度できないと数学の問題って解けないんだよ」

「そうなんですか?」

「うん。文章題の意図を汲めないと答えが導けないことが多いからな」

 貰ったプリントを眺める。よくわからない問題ばかりで頭がパンクしそうだった。

「それじゃ、よろしくな」

 崎山先生は俺の肩をポンと叩くと、鼻歌を歌いながら自分の席へと戻ってしまった。

 予期せぬプリントに、失礼しましたも言わずに俺は職員室を出る。

「マジかよ……」

「あれ、ダイバ? まだ帰ってなかったの?」

 プリントに向かって悪態をつく俺のことを、よく聞いた声が呼んだ。

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