第2話 【ダイバ2】

「ダイバ、昼食べようよ」

 四時間目が終わり、待ちに待った昼休み。クラスがガヤガヤと騒がしくなる中、俺の机の上に弁当を置いたのは俺の幼馴染であるいぬい かいだった。

「だな。あれ、は?」

「ん? ああ、職員室に行ったよ」

 言いながら、快斗は茉莉の席に座り、弁当を広げる。

「職員室?」

「そう。確か、出しそびれてた英語の課題を提出しに行くとか言ってたな」

 律儀に手を合わせ、「いただきます」と言うと、快斗は弁当を食べ始めた。

「なるほど。それならちょうどいいや、購買に行ってくる」

「あ、購買行く? ならさ、ついでにあげパン買ってきて。頼む!」

 額の前に両手を合わせる快斗に、俺は無言で手のひらを差し出す。

「なんだよケチだな。奢ってくれても良いだろ? 幼馴染なんだからさ」

 快斗に言われて俺はげんなりした。

 たしかに俺と快斗は同い年で、小学校の時に出会った。そして小中高と全て同じ学校に通い、高校二年生になった今は、昼ご飯まで共にしている。だからって奢ってもいいわけじゃない。いや、だからこそ奢りたくない。

「幼馴染なあ……。快斗だけじゃなくて可愛い幼馴染もいてくれたらな」

 色々と思い出した俺は、ため息と共に不満を吐き出した。

「いや、可愛い幼馴染は……。そうだよね」

 合わせていた手を離して後頭部に回す。快斗が椅子にもたれて天井を見上げる。快斗のリアクションがなんとなく大げさな気がしたけど、俺は気にせずに財布を取り出して購買へと向かった。


 購買でお目当てのパンと牛乳を買い、意気揚々と教室に戻った俺がクラスの空気が最悪なことに気づくのに、そう時間はかからなかった。

 理由は単純。今日の六時間目、数学の授業で抜き打ちのテストがあるからだ。

 その情報をクラスに持ってきたのは、俺の親友であるくりはら けいだった。

 出しそびれた英語の課題を提出するために職員室にいた恵太は、数学の武田先生の机の上に置いてあった“二年三組小テスト”という付箋が貼られた分厚いプリントの束を目撃したらしい。

 俺たちのクラスは、残念ながら二年三組。そして今日の大トリ、一番眠たくなる六時間目には数学が控えている。

 何より、武田先生は小テストに重きを置いていることで有名だった。テストの正答率が半分を下回ると、「家でしっかりと勉強しておいで」と宿題を渡される。

 この宿題の量が凄まじい。もちろん提出が滞れば、更に分厚いプリントが追加されることもある。

 そんなわけで、恵太の「みんな、ヤバい」という一言によって、たいらかな昼を過ごしていた二年三組の教室が一気に冷え込んだというわけだ。

 教室は阿鼻叫喚……というのはさすがに大袈裟だけど、それでも、暗く沈んだ雰囲気に包まれていた。

 良い成績が欲しいやつはもちろん、普段は勉強なんかしないようなやつも、数学の教科書とノートを机の上に広げて必死で数式を頭に叩き込んでいる。

「あ、ダイバ。おかえり」

 俺の前の席に座り、例に漏れず机の上の教科書とノートに齧り付いていた恵太が顔を上げて言った。

「おう、ただいま」

「……あれ? ダイバ、俺の揚げパンは?」

 俺の言葉と重なるように、快斗が俺に手を差し出した。

「んなもんあるか!」

 俺は快斗の手をバチンと叩いた。

「酷いな」

 ぶつぶつと文句を垂れる快斗は無視して、俺は恵太に尋ねる。

「恵太、抜き打ちあるってマジ?」

 恵太は机に張り付いた顔をゆっくりと上げ、下がっていたメガネの位置を手で直しながら「マジ。ヤバいよ」と答えた。

「でも、いいよなダイバは」

 快斗が広げた弁当を畳みながら言う。

「何が?」

「数学得意じゃん。昔っからさ」

「まあ、苦手ではないけど、それを言うならお前の方が——」

「え、そうなの? ダイバ、ここどうやって解くのか教えて!」

 俺の言葉を遮って、恵太が教科書の右下の『解いてみよう(応用篇)』という部分を指した。

「え? ああ、えっと……」

 俺が問題を読んでいると、後ろから茉莉の声がした。

「快斗くん! ごめんね、ちょっと席開けてもらっていい?」

「あ、茉莉ちゃん。謝らなくてもいいよ。もともと茉莉ちゃんの席だもんね。すぐ開けるよ」

 快斗が綺麗に畳まれた弁当を持って席を立つ。

「会話の邪魔しちゃってほんとごめんね。ちょっと数学の勉強しなきゃいけなくて……」

 茉莉が快斗にペコリと頭を下げて椅子に座った。

「栗原くん、小テストの範囲ってわかる?」

 机の教科書入れから数学の本を取り出しながら、茉莉が恵太に聞いた。

「うーん、範囲まではわからないな。前回の小テスト以降の授業でやったところをできる限り潰すしかないと思う」

 茉莉の問いに、恵太が頭を上げて答える。

「そっか。うん、やるしかないよね。ありがとう栗原くん」

 大きく息を吐いて、茉莉が数学のノートをパラパラと捲る。恵太の言う通り、時間が許す限り復習をする覚悟を決めたのが茉莉の顔から見て取れる。

「あ、なら、ダイバに教えてもらったら?」

 弁当を持ったままの快斗が、茉莉の前の席に座って言った。

「え? ダイバって、数学できるの?」

 快斗の言葉に、茉莉が信じられないと言いたげな表情を浮かべた。

「ダイバの前回の中間テストの順位は?」

「えっと……確か、十八位だったかな」

「嘘、すごいじゃんダイバ!」

「ダイバってそんなに頭よかったんだ……」

 十八位という単語に茉莉と恵太がそれぞれの反応を示す。悪い気はしないが、素直には喜べなかった。

「でも、俺より順位が高いのが、ここにいる乾くんです」

 俺は両手を快斗に向ける。手のひらをふりふりと振って、ちょっとした演出もつけた。

 俺は数学と物理が得意だが、快斗は全部が満遍なく得意。悔しいけど、快斗の方が頭がいい。

「へ? 快斗の方が高いの?」

「快斗くん、順位は……?」

 十八位よりも上、と聞いて恐る恐るといった様子で茉莉と恵太が尋ねる。

「えっと、その、五位です」

 恥ずかしそうに、でもどこか得意げに、快斗が順位を答えた。

「……は?」

「うそ……」

 茉莉と恵太が、そっとノートの上にペンを置いた。

「快斗! 僕に勉強を教えてくれ!」

 恵太が頭を下げる。

「あ……うん。もちろん」

 頼られたせいか、快斗が嬉しそうな顔で言う。茉莉の前にある机をゴソゴソと動かして、恵太の座る席にくっつけた。

「あれ、恵太には揚げパン奢れって言わないのか?」

 俺は少し意地悪をしたくなって、快斗に言った。

「揚げパン食べたいの? いいよ。明日奢るよ」

「いやいやそんな、勉強教えるくらいで!」

 俺の時とは打って変わって、快斗が首を横に振る。

武爺たけじい(武田先生の愛称)の課題回避できるなら揚げパンくらい、いくらでも奢るって!」

「……マジで?」

 快斗の言葉に、恵太が力強く頷いた。

「恵太、数学は任せて。満点目指すよ!」

「へ? いや、課題さえ回避できれば僕はそれで——」

 快斗の気合いの入りように、恵太がたじろぐ。

「……快斗くんって、そんなに揚げパン好きなの?」

 前の席で開かれた個別授業を横目に茉莉が言った。

「最近のマイブームだってよ」

「ふーん」

 少しの間恵太と快斗のやりとりを眺めた後、茉莉は数学の教科書を取り出して勉強を始めた。

 真剣な顔で数学を勉強している茉莉の長い髪が机の上に垂れる。慣れた手つきでそれを耳にかけたところで、目があった。

「ん? どうしたの?」

「え。……いや、なんでもない」

 茉莉は「変なの」と笑いながら机の上に視線を落とす。

 空気が浮つく。なんだか気まずくなって、俺は茉莉に声をかける。

「あ、あのさ、わからないとこあったら言えよ? 教えてやるからさ」

 サラサラと動くペンが止まり、茉莉が俺の方を見た。

「……もしかして、ダイバも揚げパンがマイブームだったりする?」

「は?」

「いや、ダイバがそんなに優しいのって珍しいから何か裏があるのかなあ、って」

「優しくしただけでなんでそんな驚くんだよ。裏なんてねえよ」

「本当に?」

「疑いすぎだろ。マジでなんもないよ」

 視線が合う。少し慌てたように外して、もう一度俺を見る。一拍置いて、茉莉がフワリと笑った。

「……ありがと」

 いつもよりだいぶ優しい茉莉の声が俺の鼓膜を揺さぶる。俺がそれに答える前に、誰かが教室の窓を開けた。

 風が俺たちの元へやってきて、茉莉の長い髪をなびかせる。

 俺たちはしばらくの間、小テストのことなんてすっかり忘れて、ただひたすらに見つめあっていた。

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