風の吹く街
いーたく
第1話 【ダイバ】
——ありま山 ゐなの笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする——
(有馬山に近い
そうですよ。忘れたのはあなたの方。私がどうしてあなたのことを忘れたりするものですか。)
その日の授業も退屈だと思っていた。
自分の未来に和歌が役立つとはとても思えなくて、頬杖をつきながら黒板の上を滑らかに動く白いチョークを目で追ったり、俺の席の左側に備え付けられている窓の外に広がる景色を眺めたりしていた。
やることといえば、先生が喋ったことや黒板に書いてあることを気が向いた時にノートに写すだけ。国語の授業中、ずっと眠っていただけの去年とは違って少しはマシにはなっているものの、それでも我ながら授業態度は最低だと思う。
——でも、今日は、今日の授業だけは違ったんだ。
パラリと捲ったページの先、ただのインクで書かれているだけの和歌に、俺の心の中の『何か』がたしかに動いた。
それは、この和歌に感動したとか、この和歌を読んだことで勉強の楽しさに気づいたとか、そういう心の動きじゃない。
——どこかで詠んだことがある。すぐにそう思った。そして、自分の心の中で沸き立ち、渦巻く感覚をうまく表現できないことに苛立った。
「それじゃ、ここの
国語を担当している
口調はサバサバしているけど、俺のことをあだ名で呼ぶフレンドリーさ。崎山先生はとても人気のある先生だ。国語が苦手な教科じゃなければ、俺ももっと先生と仲良くできたはずだった。
先生の目がメガネの奥で笑っているのも、俺の国語のテストの点数が
俺はゆっくりと立って、その和歌を詠んだ。現代語訳は一切の
「ダイバ、ここのそよはどういう意図で
——よう……これってどういう意味かわかる?
崎山先生の質問と重なるように、俺の心の中で小さな女の子の声がした。
——わかんねえや。
考えるよりも先に幼い声が答えた。
——考えるのはいい事だよ。流石にこれはみんなにはまだ難しいけれどね。
よく通る渋い声が幼い三人を優しく見守る。
「おーい、ダイバ?」
先生の声で、俺はハッとした。
「あ、えっと、笹が立てる音と『そうですよ』という言葉の二つの意味を持たせた
頭で考えるよりも先に、難しい言葉が唇をすり抜ける。
「おお、すごいじゃないか! さてはこっそり勉強してきたな?」
崎山先生が拍手と共に俺を褒めた。クラスの視線が俺に集まる。
俺は照れることもふざけることもせずに、まるで他人事のように会釈して、静かに席に座った。
勉強なんてしていない。する必要がない。俺はこの和歌をずっと前に教えてもらったから。
(そうさ、だから俺は知っているんだ。この和歌はどんな意味が込められているのか、俺にとってどれだけ大切な思い出——なのか。)
「思い出……ってなんだ?」
自分の心とは裏腹に、脳内に浮かんできた『思い出』という言葉に、俺は思わず声を表に出してしまった。
「ん? なんか言った?」
右隣の席の
「あ、いや、なんでもない」
「ふーん。……そう」
ぎこちない返答をしてしまった俺に、茉莉は何か言いたげな顔をしていたけど、すぐにノートを取り始めた。が、すぐに顔を上げ、少し意地の悪い顔をして「あんまりボーッとしてると、困ったときにノート貸してあげないよ?」と言った。
「は? いつも俺がノート貸してもらってる、みたいな言い方すんなよ」
どこか得意げな茉莉の顔と言葉に、なにかを言い返したくなった俺は、少し突っかかるような口調で言う。
「何それ? いつもわたしにノート貸してって言ってるじゃん」
俺の言葉を受けて、茉莉のニヤニヤした顔が少し崩れる。
「いつもではない。たまに、だ」
「それは屁理屈じゃない? そもそもそんなにノート借りなきゃいけないのがおかしいんだからね?」
「論点ずらすなよ。とにかく、俺はいつも借りてなんかないからな。今日だって、ほら。ちゃんとノート取ってるだろ?」
俺は茉莉にノートを広げて見せた。しっかりと今日の授業の内容がまとめられている、立派な学習ノートだ。
「うわ、何この汚い字!」
「今は俺の字の上手い下手は関係ないだろ!」
茉莉は俺のノートを手に取り、パラパラと何ページかめくる。
「本当に読みづらいなあ。あ、安心して? もしわたしが休んでもダイバのノートだけは借りないから」
「言ってろ。後で困っても知らないからな」
「そのときはちゃんと他の人から借りますよ〜だ!」
茉莉は憎たらしい顔をしながら持っていたノートを俺の机の上に置く。その動作で茉莉の長い髪がサラリと動いて、いい匂いが俺の鼻腔をくすぐる。すぐに、ドキッとしてしまったことを悔しく思った。
俺の心の中は茉莉にバレてはいなかったようで、茉莉は黒板の方を向いてノートにペンを走らせ始めた。
これ以上は先生に怒られるかもしれない。そう思った俺はもう少し茉莉と言い争いをしたい気持ちを抑えつつ、いつもより丁寧にノートを取った。
今先生が説明しているのは、あの和歌が載っていたページを一つめくったところ。俺は前のページに戻ることはせずにノートを取り続けた。
授業の終わりのチャイムが鳴る頃にはあの不思議な感覚は頭の中からすっかり抜けていて、俺はまた、いつもと変わらぬ高校生活に溶け込んでいったんだ。
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