追跡者(その2)

 そうやってバス停でぼんやりしていると、そこに一人の少女が姿を見せた。

 白いブラウスに黒のプリーツスカート。編込みの細やかな小さな麦わら帽子を苦労して目深にかぶり、手には使い込まれた四角い小さな旅行鞄を下げている。

 観光客だろうか? 旅行者ならアシュレーと同じ便でこの街に来た可能性も高いが、道中では見覚えがなかった。彼が街であれこれ人に話を聞いて回っている間に、その次の便ででもやってきたのだろうか。

 彼女は、先ほどアシュレーがバスの事を訊いたバス停にほど近い雑貨屋の店主に、何やら質問をしていた。まさか彼女も、ハイシティへ向かうつもりなのだろうか。

 若い女の旅行者。それはアシュレーの探し人も同じだったが、特徴は決定的に違っていた。彼女はもっと大きな荷物を抱えているはずだったし……そもそも以前に出会った彼女とは髪の色から髪型から、容姿がまるで異なっていた。

 そんな風に不躾に観察していると、彼女がちらりとこちらを向いたので、アシュレーは肩をすくめて視線を逸らした。

 バス停があるくらいだから表通りには違いなかったが、人通りはほとんど無かった。年老いた婦人が、ゆっくりとバス停の前を通り過ぎていく。

 その背後から、一人の若者がすたすたと老婆に近づいてくるのが見えた。そのまま追い抜いていくのかと思えば、彼は老婆の背後から手を伸ばして、小脇にかかえた小さな包みをそのまま強引に奪い去ろうとしたのだった。

 むしろ、その犯人がそのまま走り去ってしまっていれば、アシュレーは傍観者に徹していられた。だが老婆が包みを掴んだまま離さず、両者はしばらくもみ合う形となった。その場にはアシュレーと、旅行者の少女と、雑貨屋の店主という目撃者が三人もいた。自分の立場が不味くなったと知って、犯人は上着の内ポケットからナイフを取り出したのだった。

 切っ先をつきつけられて、老婆が驚いて悲鳴を上げる。

 傍目で見ていた雑貨屋の店主があっと心配げに声を上げる。アシュレーは無感動にみていただけだったが、少女が取り乱しもせずにそれをじっと観察していたのは、相当肝が据わっていると言えただろう。

 むしろ一番取り乱していたのは、ナイフを突きつけてきた男の方だったかも知れない。これはまずい、と思ったアシュレーは、やおら立ち上がって、もみ合う両者に相対した。

「婆さん、その鞄の中には、何か貴重品でも入っているのかい?」

「工場で働いている、息子の弁当が入っているだけだよ! 金目のものなんざ何一つ入っちゃいないさね」

「……だ、そうだ。ただひったくるよりも、ナイフや銃で脅したり傷つけたりした方が罪は重い。弁当ひとつじゃ、割に合わないとは思わないか? もし鞄を放して、そのまま黙って消えてくれれば、俺たちは皆、ここで起きた事は一切見なかった事にしてもいいが」

 そういって確認を取るように周囲を見渡す。誰も同意はしなかったが、反論の声も上がらなかった。ただ若者だけが、異を唱えた。

「う、うるさい! そんな口車に簡単に乗るかよ」

「じゃあ、どうするんだ」

「まず、お前が黙りやがれ!」

 そういって男はナイフをアシュレーに向ける。恫喝するつもりだったのだろうが、そんないとまも与えずにアシュレーはずかずかと歩み寄って、おもむろにナイフを持つ手首に掴みかかろうとした。

「……!」

 慌てた男は、アシュレーが伸ばしてきた腕にとっさに切りかかる。手首が切り裂かれるに任せたかと思うと、アシュレーはもう一度同じ手を伸ばして、今度は男のナイフの刃先を無造作につかんで、そのままぎゅっと握りしめた。

 アシュレーもまさか痛くないわけではないが、眉を少しひそめただけで、大げさに痛みを訴えるような事もしない。落ち着き払った彼の態度に、男は動揺して思わずナイフから手を放してしまった。

「……どうだ、気が済んだか?」

 アシュレーがひとにらみすると、男は泡を食ってその場から逃げ出した。鞄も放り出して、ナイフもアシュレーの手に残したまま。

 被害者であるところの老婆も、その光景を呆気に取られてみていた。アシュレーはただ一言、こう言っただけだった。

「これで一件落着だな」

 そういうとアシュレーは血の付いたままのナイフを畳んで、バス停のベンチに戻ったかと思うと、誰も相手にしたくない、という様子でまた背もたれに身を預けて目を伏せた。老婆はアシュレーの傷を案じるでもなく、ただ気味の悪いものを見るように一瞥して、鞄を拾い上げてそそくさと去って行く。

 それを横目で見送ると、アシュレーはそこで初めて自分の傷の具合を確かめた。刃先を握りしめた手のひらと、切り欠かれた手首と、二条の刃創がありありと残されていた。だがそんな傷口をじっと見つめながら意識を集中させると、出血はすぐに止まり、みるみるうちに傷口は勝手に癒着していく。

 さすがに、遠巻きに成り行きを静観していた雑貨屋の店主もこれには泡を食って、自分は何もみていない、という調子で店内にそそくさと引き下がっていった。その慌てぶりに、アシュレーは思わず笑ってしまう。

 そう言えば、あの少女はどうしただろう? そう思って振り返ると、彼女はいつの間にか、彼のすぐ目の前に立っていた。

 黒い瞳でまっすぐに見据えられて、アシュレーは思わず口にしてしまった。

「ミハル……?」

 果たして――。

 何故、その名前を口にしてしまったのか。

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