遭遇(その2)

 では、何だ? エルとノイエはお互いの顔を見合わせるのだった。

 だが気のせいで済ませるわけにもいかない。とくに機械に起因する物音である場合は放置するわけにもいかず、彼女はもう一度躯体を入念にチェックし、その後作業場をぐるりと見回す。

 そこで彼女は部屋の片隅に、水たまりが出来ているのを見つけた。

「雨漏り……?」

「まさか」

 しかし、見上げれば水は確かに天井からしたたっていた。ぽたり、ぽたり、ゆっくりと落ちてくる水。

 一体何故そのようなところに水たまりが、といぶかしんでいられたのはそこまでだった。

 天井板の隙間から滴っていた水滴は、次第にその勢いを増しとろとろと流れ出してくる。結構な量が床に落ちたが、飛沫が四散するでもなく、ゆっくりと大きな水たまりが広がっていくのだった。それを見れば、さらさらとした水ではなくある程度はとろりと粘度のある液体であることが窺い知れた。

 二人は唖然としながら天井を見つめる。建屋の二階はエルの住居とノイエのアパートがあるばかりだ。何かしらの配管が破損したという事だろうか、と現実的な回答を得て、エルは渋い顔を見せた。作業場の頭上がこんな状況では作業に差し支える、早急に補修するなりしないと――。

 だがそのような簡単な結論ではないことを、二人はすぐに知った。

 何故なら、水たまりの表面が、何もないのに不意に波紋を描いたから。

「……!?」

 ノイエは目を見張った。

 上を見ると、天井からのしたたりはすでに止まっているように見えた。波紋は水滴の落下によるものではなく、また波の立ち方も落滴によるものには見えなかった。強いて言えば自然の湖水が風でなびくように、水たまりはやけに賑やかに波打って見せているのだ。

 そう、それはまるでノイエやエルに、不可思議な事象を敢えて自ら誇示しているかのようにすら見えた。

 さらに不思議な事に、二人が見ている前で、水たまりはするするとその面積を縮小させていく。水が床にこぼれる様子の、記録映像の逆回しを見ているように、水たまりはどんどん収縮していって……代わりにそれなりに高さ方向にボリュームのある、丸いかたまりへと変貌していったのだった。

 ノイエは息を呑んだ。エルも、取り乱すことすら忘れていた。

 透き通ったままゆらゆらと揺れているさまは、確かに液体には違いないのだろう。それが重力の法則に逆らって、固形状に丸く固まっているのだ。異常な光景、などとわざわざ言うのも馬鹿馬鹿しいくらいに、奇妙な、あり得ない光景だった。

「ね、ノイエ……どうしよう。どうしよう、ね、ノイエってば」

「わ、分かんないよ。……ちょっと、引っ張らないでってば」

 エルはノイエの細い肩にすがりついて、彼の背中に隠れようとするのだった。成長期のはずなのに発育のあまりよくない少年の体格では、まだまだ女性とはいえ大人のエルには適わない。遮蔽物としてはこんなに不向きなものもなかったから、見た目には滑稽なやり取りだったかも知れないが、当人達にそれを自覚する余裕はまったくなかった。彼女が裾をぎゅっと掴むものだから、肩の辺りがずり落ちそうになっていた。

 そうこうしている間に、水のかたまりはさらに怪しい蠢動を開始していた。柔らかいクッションが自律的に動いているかのように、縦に横にと幾度となく伸縮を繰り返す。

 何度かそんな運動を続けるうちに、やがて形状に変化が生まれていくのがノイエには分かった。

 水たまりの表面から、ぬっと突起が突き出てくる。その先端がまるで人間の握り拳のような形をしている。まるで、ゴムか何かの薄い皮膜の向こう側に本当に人間が隠れていて、拳をぎゅっと押しつけたような、そんな光景だった。

 だがもちろん、そこに人間が隠れ潜む余地などはない。

 その拳だけではない……水たまりは透明度を徐々に失っていって、代わりに同じように奇妙な突起や隆起やくぼみが、生まれては消えていく。無規則な怪しげな蠢動を繰り返しているように見えて、そのかたまりはやがて意味を成す形らしい形へと変容を遂げようとしていたのだ。

「人だ……」

 ノイエが、ぽつりと呟いた。

 少年が言うように……自律して動く謎のかたまりは、やがて生き物か何かを薄い皮膜で覆って封じ込めたかのような様相を呈し始めていた。まるで中にいる生き物が、そこから脱出しようともがいているように見えた。

 そして……そんな心証が、次の瞬間現実になった。皮膜の一端に裂け目ができたかと思うと、そこから本当に手のような形状をしたものが突き出されて……皮膜をびりびりと引き裂き、押しやるかのようにして、中から四肢を持つ生き物のようなかたまりが、ごろりと出てきたのだ。

「ひっ!」

 悲鳴をあげて後ずさったのはエルだった。ノイエに夢中でしがみつくあまり、少年の首をいつの間にか羽交い締めにしてしまい、少年は別の意味で難儀する事になったが、それはそれ。

 皮膜の破れ目から、まるで羊水のように水が――今度はただしく重力の法則に従って床にこぼれ落ちた。被膜の破れ目から這い出てきた生き物のようなかたまりは、床に無造作に身を投げ出していた。

 ぐったりしたまま身動きしない、と思っていたら、それは不意にこちらに向けて、その半身をゆっくりと起こしたのだった。

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