5.part of Y.H.

 甲高い悲鳴が聞こえた。

 一人のビリヤードを終えて部屋に戻り二時間ほども眠った後、私はその声によって目を覚ました。朝の五時だった。

 部屋を出ると、廊下の果てで美穂が腰を抜かしている。私はそこへ駆け寄った。


「どうした」

「あ、あれ……」


 美穂は廊下の床に尻もちをついたまま、前方を指さす。そこは、鐘一の寝室だった。

 薄暗い中にベッドサイドライトの小さな明かりが灯っている。部屋の中央の白いシーツが敷かれたベッドには、誰かがうつ伏せで寝ているようだった。しかし、よく見ると呼吸の気配がしない。寝ているというより、倒れているように見えた。

 部屋に入り、辺りを見回す。他には誰もいない。倒れている誰かに近寄っていく。

 ベッドの上に倒れているのは、男だった。顔は左を向いていて、近付くと上から横顔を見ることが出来た。

 鐘一だった。

 首に手を添わせると、頸動脈が脈動していなかった。私は口の中で舌打ちをした。

 手早く体を確認していく。外傷はない。しかし、髪を除けて後頭部を見ると、不自然に凹んでいた。長袖を捲ると、腕の下方が青黒く変色している。死斑だ。

 ふと足元を見ると、床に何か落ちていた。しゃがんで見ると、紫色の灰皿がひっくり返っていた。

 立ち上がって振り向くと、美穂は床に座り込んだまま両手で顔を覆っている。私は部屋を出て、扉を閉めた。美穂の傍にしゃがんで、肩に手を置く。


「美穂。すまないけど、警察に通報してほしい。鐘一氏は死んでいる。私はこの部屋を見張っておくから。出来るね?」


 美穂は力無く頷いて、立ち上がった。両手を顔から下ろすと、双眸からは涙がこぼれている。

 私が頷くと、美穂は速足で書斎へ向かう。しかし、美穂が書斎の扉に手を掛けても、それは開かなかった。


「鍵がかかってる」

「君の部屋の電話を」


 私がそう言うと美穂は再度廊下を駆け、自分の部屋へ入っていった。

 私は廊下の壁に背を預け、腕を組んだ。閉じた扉を睨みながら、もう一度口の中で舌打ちをした。



 戻ってきた美穂に寝室の鍵がどこにあるか聞くと、鐘一が持っている物と書斎の中に一つだという。私は美穂を廊下に残して寝室に入った。

 寝室の中に置かれているのはベッドと小さなテーブルばかりで、あとは壁を伝声菅が伝い、背より高い位置に朝顔が咲いているだけだった。

 テーブルの上には古そうなレコードプレイヤーが置かれていた。そのテーブルの引き出しを開けると、鍵の束が入っている。私はハンカチを使ってそれを引き出しから取り出して、寝室を出た。

 私は鍵束を美穂に見せながら、

「書斎の鍵はどれ?」

と聞いた。美穂は束の中の一つを指さす。それを書斎の扉の鍵穴に挿して回すと、がちゃと音がした。私はノブを捻って扉を開く。

 美穂には廊下にいるように言って、私は書斎へ入った。暗く、何も見えない。私はハンカチ越しに明かりのスイッチを入れた。蛍光灯に部屋が照らされ、全体が見える。

 木製の大きなデスクが奥に置かれていて、壁は本棚で見えなかった。デスクの上にはほとんど物は無く、床に何かが置かれていることもない。見事に整理されている。

 部屋の中を観察しながら、デスクの裏に回る。すると、デスクに何か立てかけられているのが見えた。緑色の布で梱包された長方形の何か。長さは一メートル弱ほどもある。私は布の結び目をそっと解いた。

 中には白木の箱が入っていた。ラベルのような物はない。ハンカチを使って、蓋を外す。

 刀が入っていた。

 鞘に入った、反りの少ない刀だ。黒い鞘は紙の緩衝材に埋まりかけている。私はその姿形を記憶してから、蓋をして包みを元に戻した。

 廊下に戻ると、美穂が心配そうな顔をして立っていた。私は後手に書斎の扉を指さしながら、


「ここに最後に入ったのはいつ?」

「昨日の夜……、十一時すぎ」

「西野原さんと照山さんが何かプレゼントをした後?」

「多分そう。一日の終わりに挨拶をしに行くの」

「プレゼントが何だったかは知ってる?」

「知らないけど……、机の上に何か置いてあったのは見た。緑色の布で包まれてて、一メートルくらいの四角い」

 

 私は頷いて、辺りを見回す。廊下の最果てでは鐘一の寝室とピアノの置かれた部屋が向かいあっていて、寝室の隣が書斎だ。書斎の真向かいは執事の休憩室だという。鍵は執事の駒野しか持っていないらしい。


「普段、鐘一氏はこの時間には起きてるのかな」

「うん。いつも、ダイニングで会うんだけど、今日は時間に来なくて」

 私はまた頷いて、ピアノの部屋の扉へ向かう。ノブを握るとそれは何の抵抗もなく回った。

「普段、この部屋に鍵は?」

「掛かってない。鍵が掛ってるのは、書斎だけ」


 私は頭の中に様々な情報が渦巻くのを感じながら、開けた扉の中を覗く。美穂には廊下にいるように言って、私は部屋に入った。

 防音室にはなっていないようだった。七メートル四方くらいの部屋の中にグランドピアノが堂々と置かれている。それ以外は何も無い。

 最初に鐘一に話を聞いた部屋であり、十年前に夏美が殺されて悲鳴を上げた部屋である。

 壁にはやはり伝声菅が伸びている。他の部屋にも音色を届けようという配慮なのか、もともと歌や演奏の為の部屋ではなかったのかは、聞かなかった。私は頭の上にある伝声菅の口が開かれていることを確認して、部屋を出た。

 廊下に美穂の姿は無かった。その代わりに、西野原明子が立っている。


「何の騒ぎ? ひょっとして、鐘一さんに何かあったの?」

「鐘一さんは、亡くなっています。いま警察がこちらへ向かっています」

「亡くなってる? それで、警察って……、殺されでもしたっていうの」

「いまの段階では何も言えません」

「そんな……」

「西野原さんは、鐘一氏とはどのようなご関係だったのですか?」


 西野原は肩を落としていたが、私には聞きたいことが幾つかあった。


「どのようなって、音楽家と音楽評論家の関係だけど、それがいま関係あるの?」

「情報を整理したいのです。鐘一氏の寝室に入ったことは?」


 西野原は目を泳がせて、


「ないって言ったら信じるの」

「美穂に聞いたら分かりますよ」

「ふん……、寝室なら、何度もある。それが何? まさか、私が鐘一さんを」


 西野原がそう言いかけたとき、美穂が青い顔をして自分の部屋から出てきた。


「夭、警察から電話があって、土砂崩れが起こってて山を上って来れないって」



 美穂の部屋から執事の駒野の家に電話を掛けると駒野は、山を下りた夜の十時には土砂崩れは起きていなかったという。しかし山の麓に住んでいる人間が夜中に轟音を聞き、心配をされたらしい。崩れたのは山に入る辺りで、轟音がした時間は一時ごろだったとのこと。ちょうど私がダイニングで鐘一をウィスキーを飲んでいたころだ。元々辺りの住民に音が聞こえないように山の上に家を建てたらしいから、山の麓の音が聞こえなくても不自然ではないのかもしれない。

 寝室と書斎、ピアノ室は鍵を掛け、私はダイニングに全員を集めた。扶桑朱乃、青木美穂、西野原明子、照山史彰の四人だ。

 朱乃には、父親が殺されたとは言わず、ただ突然死したらしいとだけ伝えた。朱乃は私の言葉を飲み込み、下唇を噛んだ。


「警察は山を上って来られない状況です。皆さん、ご自分の部屋で過ごしてください」

「玄関の鍵は?」


 反射的にそう聞いてきたのは西野原明子だった。


「閉まっています」

「そう……」


 西野原はそう言って、顔を背けた。殺人犯がこの場にいると宣告されたことを理解しているのだろう。


「榛原さんは、どうするんです」

 照山が私の顔を見ずにそう呟いた。

「少し、話を伺います」

「まさか、捜査を?」

「私は警察の人間ではありません。しかし、鐘一氏の死を闇に包まれたままにしておけはおけない」

「そうですか……」


 照山はそう言って、車椅子を動かしダイニングを去っていった。西野原も後に続く。ダイニングには私と美穂、朱乃が残された。


「鐘一氏は、君の母親のことをどう思っていたのかな」


 私は椅子に座って俯いている朱乃にそう聞いた。隣で美穂が「ちょっと」と私を咎める。


「どういう意味ですか」

「質問を変えようか。鐘一氏に再婚をする予定はなかった?」

「知りません」

「じゃあ、もう一つだけ。最後に鐘一氏の書斎に入ったのはいつ?」

「覚えてません。ずっと入ってない」

「そうか。じゃあ、部屋で休むと良いよ」


 私がそう言い終らないうちに、朱乃はダイニングを出ていった。それを見届けた美穂が私の袖を引っ張って、


「朱乃ちゃんだって辛いのに、あんなこと聞かなくても」

「必要なことだったんだよ。ところで、西野原明子だけど」

「……何?」

「鐘一氏とはどういう関係だったのかな。何か知ってる?」


 美穂は少し逡巡する素振りを見せ、


「西野原さんには、子供がいるみたい。でも、歳の離れた妹さんに預けてるって」

「何歳?」

「五歳だって、本人が言ってた」

「父親は?」

「知らない。でも……」

「鐘一氏と西野原明子は五年以上前から噂になってる訳か」


 美穂は頷いて、私から視線を外す。

 私は朱乃の座っていた椅子に座って足を組んだ。そろそろ推理を開始しても良いころだろう。

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