4.part of Y.I.
夕食のメインは鶏のソテーだった。海老沢が調理したらしい。
ダイニングは東棟一階にある。そこに置かれたやけに大きなテーブルの端に、五人で集まって食事をした。ライターの西野原と手伝いの海老沢が時折話をする以外は、静かな夕食だった。主人の妹尾は鶏を一口食べたときに「美味しいわ」と海老沢へ言っただけで、あとは黙っていた。俺も何を言わず、西野原と海老沢の話を耳に入れていた。
夕食が終わると妹尾は自室へ引き上げていった。西野原と水瀬の豪雪にまみれた二人はもう風呂には入ったという。海老沢は俺の後で良いというし、妹尾は朝に入浴するらしい。
食後に浴室を借りて温かいシャワーを浴び、全身を洗って部屋に戻ると、疲れていたのか浅い眠りに落ちた。何か夢をみたような気がするが、何も思い出せなかった。
目が覚めると夜の十時で、寝直すほど眠気はない。誰か起きていないかとホールへ向かってみることにする。
二階のホールには誰もいなかったが、一階に降りるとホールのソファに海老沢未来と水瀬譲二が座っていた。扉を開けると二人同時にこちらを向いた。
「ああ、石神さんか。どうですか、一杯」
水瀬がそう言って僅かに微笑んだ。顔がやや紅潮しているように見える。テーブルの上に視線を移すと、ウィスキー――あの緑のラベルは今年の駒ヶ岳だ――の瓶とペットボトルのミネラルウォーター、氷の入ったアイスペールが置いてあった。
「良い物をお持ちですね。水瀬さんがお持ちで?」
「違いますよ、妹尾さんが快く、飲んで下さいと」
「へぇ。海老沢さんも飲んでるんですか?」
俺はそう言いながら水瀬の隣に座った。海老沢だけが対角のソファに座っている。
「いえ、私は仕事中なので」
「ずっとですか? このバイトが終わるまで?」
「そうです。でも、もともとお酒は弱くて」
「俺が付き合ってもらっているだけです」
そういう水瀬は既に何杯か飲んでいるのか、少し出来あがってしまっているふうに見える。俺は「では少しだけ」と言って、テーブルのトレイの上に伏せられていたグラスを手に取る。
「石神さん、さっきお屋敷の中を歩き回っていましたよね」
素面の海老沢が俺からグラス受け取って、そう俺に問う。
「少し見ておきたかったのでね。ここのお屋敷は、出入り口は一階の表玄関だけですか?」
「北棟の端に、庭に出る通用口がありますよ」
「北棟の二階には何が?」
「防音室があります。あとは倉庫みたいになっている部屋とか」
「妹尾さんは、ご自身でも楽器を?」
「アップライトピアノがあります。本当はグランドピアノが欲しかったけど、こんな山奥には運んでもらえないからって、諦めたみたいです。演奏は、私も聞いたことないですけど」
妹尾が海老沢を雇ったのは、左手首の骨を折ったからだ。海老沢が妹尾のピアノを聞いたことがないのは自然なことだろう。
「そう言えば、西野原さんは?」
俺はさも今思い付いたかのように水瀬にそう問う。すると、大男は首を傾げた。
「ピアノを貸してもらうっていってましたけど。でも、いつもより神経質そうでしたね。そんなに気合いを入れて演奏するのかな、と思ったな」
ふぅん、と頷いて、俺は海老沢からウィスキーの水割りを受け取った。口を付けると、舌の上に果実の香りが渦巻く。
風の音を聞きながら水割りを飲んでいた。ゆっくりと時間が流れている。そんなことを思っていると、突然北棟への扉の向こうに人影が現れた。俺はグラスを置いて、その扉がゆっくりと開くのを見た。
「皆さん、楽しそうですね」
現れたのは、妹尾風花だった。海老沢は立ち上がって、「どうされました」と妹尾に駆け寄る。
「少しお水を飲むだけ。海老沢さんはここにいて」
「お水ならここにありますよ」
俺は開いているグラスがまだあることを確認しながらそう言った。妹尾は僅かに微笑む。俺が空のグラスにミネラルウォーターを注ぐと、妹尾風花は俺の隣に座った。
「ごめんさないね。わざわざ来てもらったのに。明日、ちゃんとお話は聞きますから」
話を聞きたいのは俺の方なのだが、妹尾がどの程度話をするのかは分からない。俺は水を飲む妹尾の横顔を見ながら、表情を伺おうとする。しかし妹尾からははやり、表情が読めなかった。
妹尾が部屋に戻った後も話をしながら酒を飲みかわしていたが、水瀬は十二時ごろソファで横になってしまった。俺は駒ヶ岳なら一晩掛けても酔わないだろう。もったいなくて舐めるようにしか飲めないからだ。
海老沢がキッチンへワインを取りに行って静かになったホールで、俺はグラスに残った氷を噛み砕いた。カーテンの引かれた窓の外では吹雪が酷くなっているらしく、ときおり音を立てて風が吹いた。
そのうち屋敷の中からもがたがたと音がして案外立て付けが悪いのかと思っていると、北棟へ続く扉が揺れていた。見るとガラス窓の向こうで海老沢が扉へ体を押し当てていて、どうやらそのせいで扉が揺れているらしい。
扉を開けてやると、海老沢はトレイを両手で持っていた。その上には瓶の白ワインとグラスが二つ。
「海老沢さんも飲むんですか」
「えっと、ちょっとだけ」
白ワインなら酔わないと海老沢は言った。その言葉の通り、夜中の三時に水瀬が起き上がって部屋に戻るまで俺と海老沢は二人でワインを飲み続けた。俺はワインは詳しくないが、海老沢が山梨県の物だと言っていた。
「楽しかったです。石神さんの話、どれも刺激的で」
「そうですか? 私も海老沢さんと話せて楽しかったですよ」
俺と海老沢は飲んだ物の片付けをしにキッチンへ行ったあと、北棟の階段の前で分かれた。海老沢はふらつくこともなく廊下を歩いて行った。
東棟の廊下は西側を南北に伸びていて、客室は東側にある。部屋に戻ろうとする途中、思い付いて部屋の前の廊下の窓から外を見ると、思った通り北棟が見えた。
雪は止んでいた。
風はまだ強く、遠くで木々が揺れている。北棟の尖端には庭に繋がる勝手口があるというが、角度が悪くてよく見えない。目を凝らすとその先に何か、紫色の一抱え程もある大きさの物が置かれているように見えるが、庭というのがどの辺りを差しているのかも分からなかった。
暖房を入れっぱなしにしていた部屋に戻ると、何となく眠くなってくる。俺はそのままの格好でベッドに倒れ込み、仕事の内容を思い出しながら眠りに落ちた。
何か騒がしいと思いながら目を覚ますと、廊下に繋がるドアがノックされている。「石神さん」と海老沢の声が聞こえ、俺は半覚醒状態のまま扉を開けた。
「すみません、妹尾さん、知りませんか」
「知りませんけど、何かあったんですか」
つけたままの腕時計を見ると七時すぎだった。廊下に出て辺りを見回すと、窓から薄い光が入って来ている。
「妹尾さんが、いないのですね?」
「そうなんです。いつもこの時間には朝ごはんを食べにダイニングにいらっしゃるんですけど、今日はまだで……、様子を見に寝室へ行ったら、いなくて」
「お風呂は?」
「まだ入る時間じゃないんですけど、それが……」
「何か?」
「中を見たら、バスタブが雪で一杯だったんです」
「雪?」
俺は嫌な予感を感じながら、廊下を小走りで進み始める。後から海老沢がついてきて、俺の隣に並んだ。
「他の人には、何か聞きましたか」
「まだ何も言ってません」
「言わないでください。特に、バスタブのことは」
二階のホールを通って北棟へ進み、階段を使って一階に下りる。廊下を半分程進むと浴室はあり、脱衣所の扉は閉められていた。
「シャベル、ありますか」
俺がそう言い終らないうちに海老沢は廊下を駆け出していった。俺は脱衣所の扉を開ける。
冷気が足元を伝った。
大きな屋敷に似合わない、小さな脱衣所と小さな浴室だ。浴室のドアは磨りガラスで、その向こうに明かりが点いていないことが分かる。
「持ってきました」
振り向くと海老沢が立っている。俺はシャベルを受け取って、海老沢に廊下に出ているように言った。
「誰か来ても、中に入れないでください。海老沢さんも、入ってこないで。この辺りの物は出来るだけ触らないでください」
海老沢は黙って頷き、廊下へ出て行った。
ベストのポケットからハンカチを取り出して、それ越しに浴室のドアのノブを握る。そっと開けると、さらに強い冷気が足元に流れ込んできた。
バスタブは猫足の小さな物で、その中には雪が詰まっていた。
白いバスタブにぎりぎりまで詰められた白い雪。
浴室へ入って、辺りを見回す。昨日シャワーを浴びたときと同じ、何も変わったところのない浴室だった。
再度バスタブへ視線を戻し、握ったシャベルを見る。小さな家庭菜園用のシャベルだ。
俺はそのシャベルをバスタブに詰められた雪に刺した。
雪を掘る。しゃく、と音がして、雪に圧力が掛けられていないことが分かった。
バスタブの、中央を掘っていった。程無くして、異物にぶつかった感覚がする。
固い何かだった。
俺は舌打ちをして、結局バスタブの中の雪を全て掻き出すことにした。最悪の想定をしてはいるが、そうと決まった訳ではない。
しかし、最悪の想定は事実として目の前に現れる。
雪を掘っていくと、また異物が見えてきた。
指、だった。
青黒い指だ。さらに掘っていくと、手が見えてくる。
雪を掘る。すると、腕が見える。体が、顔が見える。
雪の中には、人が埋まっていた。
妹尾風花だった。
胸にはナイフが刺さっている。
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