3.part of Y.H.

 私が貸して貰っている客室で本を読んでいると、扉がノックされた。私の返事を待って部屋に入ってきたのは、扶桑朱乃だった。


「探偵さん」


 朱乃は閉めた扉の前で私をそう呼んだ。私は窓際の椅子に座っていて、朱乃とは少し距離があった。雨も降っている。朱乃の声は少し小さすぎた。


「そこ、座ると良い。お茶でも淹れようか」


 朱乃は部屋に備え付けのソファに座り、私はその隣に座った。ソファとセットのローテーブルには魔法瓶とカップ、紅茶のティーバッグが用意されていた。カップにはレースの白い布が被せられている。


「紅茶で良いかい。と言っても紅茶しかないが……」

「探偵さん」

「すまないが、榛原さんか、夭さんと呼んでくれないか」

「じゃあ、榛原さん。榛原さんは、祖母のことを調べに来たんですか?」

「そうだよ。鐘一氏から依頼されてね。君の祖母、扶桑夏美の死は、まだ闇に包まれている」

「そう……」


 朱乃は膝の上で手を握って、視線を下げている。私はカップを布の下から取り出してソーサーに置き、そこにお湯を注いでティーバッグを入れた。


「それを聞きに?」


 私は朱乃の横顔を見ながら、そう聞いた。さっきの話の続きにしては短すぎると思ったからだ。


「それもあるけど……。うちの父は、その、有名なピアニストだから」

「ああ……、醜聞が、恐いのか」

「うん。もしこの家に何か秘密があったら、父はピアニストとして生きていけなくなるかもしれない」

「それで、私に、何をしろと?」


 朱乃は一瞬だけ私の顔を見て、それからまた視線を落とす。


「秘密は、秘密のままにしておいてください」

「それは、もし夏美氏の死の闇が取り払われたとしても、それを公言しないでほしいということ?」

「そうです」


 私はカップからティーバッグを取り出して、テーブルの上にあった灰皿に置いた。カップを朱乃の前に差し出す。


「私は、依頼を受けた探偵なんだ。夏美氏の死の真相を知りたいと依頼人は言った。私はそれを果たすべく全力を尽くす。それを公言するかしないかは、鐘一氏によるよ。君から頼んでも良いし、私から提案しても良いけど、どうする?」

「……私が言ってみます。でも、父がそのことを考えてないなんて、あり得ない」

「夏美氏の死自体が、いまでも噂になっている。それを取り払いたいんだと思うよ。君は、音楽家になるの?」

「そのつもりです」

「鐘一氏は、多分、君の未来にまで夏美氏の死の影を差したくないんだろう」


 私は足を組んで、膝の上に手を置いた。朱乃はカップを左手で持ち上げ、それに口を付ける。袖口から覗く手首に、赤い痣があった。私の視線に気づいたのか、朱乃は右手でそれを隠すようにする。


「小さいとき、火傷したんです。まだ祖母が生きているときでした。祖母はそれを自分のせいみたいに思っていたって、あとで父から聞きました。私、祖母のこと、大好きだったんです。私はまだ六歳だったけど、ショックで熱を出しました」

「何か覚えていることは?」

「今日と同じ酷い雨だったこと。あのときは、ここに来るまでの道が土砂崩れで通れなくなっていたこと」

「当日いたのは、鐘一氏と、五年前に亡くなった由美子氏。それと君と」

「当時の執事の方とお手伝いの方です。悲鳴を聞いて、全員で祖母を探しました。そしたら……」


 現場はピアノ室だったという。ピアノ自体に血飛沫は掛からなかったらしいが、絨毯は変えたらしい。

 話は鐘一から聞いたものと一致していた。他に話を聞ける相手もいないし、この二人のいうことを、一旦は信じる他ない。


「君の母親、由美子氏は車椅子に乗っていたというけど、自分で立てないほどだったのかな」

「横になっている時間が長くて、筋力が落ちていたんです。少し立つくらいなら出来ましたけど」

「十年前には車椅子生活だった?」

「そうです」

「車椅子は幾つあったの?」

「えっ? 一つだけですけど」

「亡くなった病気は何だったのかな」

「心臓が弱かったんです。それで、心臓発作でした」

「そう……」


 私は、犯人が誰かよりも、なぜ夏美氏が殺されたのかの方を重要視している。ただ、まだ考えるには手がかりが少なすぎるし、時間がないわけではない。


「ま、夏美氏のことは今日から三日かけて考えるように言われている。当時のことも少しは調べてきたけど、明日明後日とこの家のことを調べつつ、推理していくよ。君の言うことも、胸に留めておく」


 朱乃は礼を言って部屋を出ていった。紅茶はいつの間にか飲み干されていた。


 普段寝付くのは深夜で、私は部屋で夜を持て余していた。時計を見ると時間は一時半。私は部屋を出た。

 誰もいないひっそりとした廊下を歩き、ダイニングに辿り着く。キッチンを物色するのは気が引けるが、ダイニングに何か摘まめるものでもないかと思ったのだ。しかし、何も無かった。

 壁の大きな窓越しに外を見ると、雨が夜の中に降っている。雨粒は大きく、風に煽られて斜線となって目に見える。

 その中に誰か立ったように見えた。

 しかしそれは、ガラスに映った背後の人影だった。私は体ごと振り向く。


「鐘一さんか。驚かさないでください」

「驚いているようには見えませんよ。何か飲みませんか?」

「いただきます」


 鐘一は一度キッチンへ行って、四角い瓶と切り子のあしらわれたグラスを二つ持って戻ってきた。グラスには氷が入っている。


「ウィスキー――竹鶴ですか」

「お嫌いですか?」

「大好物です」


 鐘一は「日本のウィスキーも美味いのですね」などと言いながら上座の席に座り、私に朱乃の座っていた席を促した。私がそこに座ると、鐘一は瓶の栓を抜いた。


「晴れていれば景色が良かったのですが」


 鐘一はそう言ってグラスを琥珀色の液体で満たし、私の前に置いた。自分のグラスにもそれを注いでいく。


「酷い雨ですね」

「下の道が大丈夫だと良いのですが」

「十年前は通行止めになったとか」

「土砂崩れで、歩いても通れなくなりました。そんなときだったのです。母が殺されたのは」

「土砂崩れのことは、全員が知っていたのですか?」

「知っていました。とは言っても、当時の執事と手伝いは住み込みでしたし、食料もあった。焦った感じではありませんでした。母が殺されるまではね」


 私は頷きながらグラスに口を付け、雨の音を聞いた。勢いは酷くなるばかりで、風も強くなってきている。

 その後も私は鐘一と話をしながら、しばらくグラスを傾けた。グラスを空にした鐘一が時計を見て「こんな時間か」と呟いたときには、三十分ほども経っていた。私は二杯目の残りを呷り、


「もうお休みになってください。お付き合いいただいて、ありがとうございました」

「いえ、お付き合いいただいたのは私の方ですよ。榛原さんこそお疲れでしょうに」


 鐘一はそう言って立ち上がった。ふらついてこそいないが、少し目の焦点が合っていないように見えた。

 私は片付けを手伝いがてら、鐘一とキッチンへ入った。鐘一はシンクにグラスを置いて、私が持っていた瓶を受け取る。私はそのタイミングで用意していた質問をぶつけることにした。


「そう言えば、さっき聞いてしまったのですけど、西野原さんと照山さんから、何かプレゼントされたのですか?」

「ええ、まぁ、そうです。誰にも言っていませんけどね」

「何を?」

「いえ、これは、秘密なのです。私と西野原くんと照山さんしか知りません」


 人に言えないような物なのだろうか。物騒な物でなければ良いのだが。



 鐘一とは一階の廊下で別れた。鐘一の寝室は一階書斎の隣にある。私は二階を彷徨することにした。

 階段を上がって真正面の扉は両開きで、それはきっちりと閉められていた。金色のノブを捻ってその扉を開けると、中は暗闇に包まれている。私は手探りで明かりのスイッチを探し、それを押した。

 明かりに照らされた広い部屋の中央には、ビリヤード台があった。壁際には大きな本棚が置かれている。遊戯室と言ったところだろう。本棚の前には豪奢な椅子が数脚置かれていた。

 私はビリヤード台に近付いて行って道具を確認し、ボールをセットした。一人キューを構え、白い手球を突く。

 ブレイクショットが決まって、小気味良い音を立てながら九つのボールがテーブルの上を散っていった。

 しばらく一人、ボールを突いていた。

 雨の音の中にボールのぶつかる音が突き刺される。それ以外は静かな時間だった。

 三度目のブレイクショットを突いたとき、だった。

 不意を打つようにピアノの音色がどこからか聞こえてきた。穏やかなメロディだ。辺りを見回すと、壁を蓋の開いた伝声菅が伝っている。やはり朝顔を象っていた。音はそこから聞こえていた。

 時計を見ると三時だった。音楽家というのはこんな時間にもピアノを弾くのだろうか。

 演奏の音は小さく、遠くから聞えているようだった。蓋をしていれば聞えなかっただろう。

 誰の曲かは分からなかった。鐘一の作った曲だろうか。そんなことを考えていると、部屋のドアが開く音がした。見ると、青木美穂である。


「夭か。こんな時間に……、まだ寝るの遅いんだね」

「美穂だって起きてるだろう」

「私は、いま起きたの。ほら、ピアノの音が気になって。それでちょっと外にでたら、ここの明かりが点いてるから」

「鐘一氏かな」

「そうだと思う。これ、最近作ってる曲みたい。でも、ピアノを弾いてるときは入るなって言われてるからさ」

「執事の人は?」

「さっき帰ったよ。毎日山を上って下りてるんだって」


 壁掛けの時計を見ると、三時前。私はキューを掲げて、

「一緒にどう?」

「私、また寝る」

「あそう」


 私は眠そうな顔の美穂が可笑しくて、笑ってしまった。その美穂の後ろに、突然人影が現れる。


「なにしてるんですか」


 驚いた美穂が飛び退いて、廊下の影が見えるようになった。朱乃だ。小さな体に白いワンピースを被っている。寝間着だろう。


「君もこの音で起きたのかな」

「……榛原さんこそ」

「私は宵っ張りでね。美穂はもう寝るってさ。君も寝な」


 私がキューの先にチョークを擦りながらそう言うと、朱乃は黙って頷いた。するとずっと聞こえていたピアノの音が聞こえなくなって、思い出されたように雨の音が目立ち始める。


「ご主人もお休みかな」


 私がそう言うと、朱乃はまた黙って頷く。


「じゃあ、私も寝るから。おやすみ」


 美穂はそう言い残し、朱乃の肩を抱いて廊下へ消えていった。

 一人雨の音に包まれた私はまた一人、ボールを突く姿勢に入る。

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