第5話

 教室で優子ちゃんが先生にほめられていた。えらいね、よく勉強したね、って。


「算数のテストで九十点取れたの。ほら、花丸まで貰ったんだ」


 ランドセルに教科書を詰める僕の目の前にテスト用紙が突き出される。用紙の右上に、風になびくような字でキュウマルとハナマルが書かれていた。僕は、自分のテストに書かれた三十五点という数字が、優子ちゃんの息一吹きでぐしゃっと潰れてしまうところを想像した。


「こんな点取れたの生まれて初めて。いつも勉強する時にたっくんが傍に居てくれたから、全力を出せたんだよ」


 僕が傍に居ただけで? 本気を出せた? 僕は勉強運の上がるお守りなんかじゃない。乱暴にランドセルのふたを閉めて、早足で教室を去ろうとする。


 「待って、私も一緒に帰る」と背中にすがり付いてきた言葉を、振り払えるものなら振り払ってやりたかった。


 今日は一日雨が降らなかったのに、靴箱に入れていた僕の靴はびちょびちょに濡れていた。濡れた指先を臭ってみると、給食の時に手に掛けるアルコール消毒液のつんとした臭いが鼻を突く。


 玲奈ちゃん率いる女子たちの悪戯だってことは分かってた。でも分かったところで、これを先生に伝えても意味がないということも分かってた。先生はきっとクラスの中から悪戯した犯人を突き止めようとするけれど、みんなこけしみたいな顔をしてかぶりを振り通すだろう。だって、クラスの中で一番可愛い玲奈ちゃんが先生に叱られるなんて、誰が見ても可哀そうに思って胸を痛めるはずだから。


 隣で優子ちゃんが何かをやっていた。彼女は自分の靴を取り出すと、その場でしゃがんで靴をひっくり返し、靴底をぽんぽんと叩いた。すると、靴の中に押し込まれていた、それまで泥団子だったものの塊が、どしゃっと音を立てて玄関の床に散らばった。後ろの方で、くすくすと女の子たちの笑い声が聞こえた。



 ひやりと冷たい僕の靴は、歩く度にぐじゅぐじゅと気持ち悪い音を立てた。足がふやけて真っ白になってしまうような気がした。早く家に帰りたい。一秒でも早くこの靴を脱ぎ捨てたい。そんな焦る気持ちを煽るように、僕の腕を掴んでくるやつがいる。


「ねぇねぇ、遠足の時みたいに手ぇ繋ご」


 中まで泥だらけの靴を履いた優子ちゃんの無邪気な笑顔が、僕の体に蛇のように巻き付いてくる。その笑顔がすごく怖かった。ついさっき酷い悪戯をされて、こっちは声も出せないくらいショックなのに。何が楽しくてこの子はこんなにも眩しい笑顔を作れるのだろう? おかしい。感情がねじ曲がってる。こいつ、普通じゃない。


 優子ちゃんにチュウされた時、口にしていたおまじないの言葉を思い出す。「絶対に寂しくならない――」たとえ周りのみんなから酷いいじめを受けようと、家族から見放されようと、血の涙を流しながら「寂しくない」って叫んで、笑い続けていなければならない。そんな永遠の呪いなのだとしたら……


 今、彼女の言う通りに手を繋げば、この前のチュウの時と同じようにまたおまじないをかけられるような気がした。今度は一体どんなまじないをかけるつもりなんだ? 一生手がくっ付くとか? 僕のテストが全部0点になるとか? 脳みそを食べるバイキンを本当に作り出すとか? 僕も優子ちゃんと同じようにいじめられても笑うことしかできなくなるとか? 


 ――もう嫌だ。


 頭の中に湧き上がる数々のおぞましい呪文を、まとわり付く優子ちゃんの腕ごと振り払った。


「離せ。一人で帰れよ」


 優子ちゃんが凍った。僕の放った言葉が、自分でも鳥肌が立つくらい、あまりにも冷たかったから。


「……たっくん、怒ってるの?」


 覗き込んでくるその顔を、もう二度と見たくなかった。声も聞きたくなかった。だから僕は逃げ出す。もう知らない。全部優子ちゃんのせいだ。全部あのチュウが悪いんだ。僕はもう変なおまじないなんかにだまされない。もう家にも行ってあげないし、勉強も一緒にやってあげない。泥団子も作ってあげないし、これからずっと友達にもなってあげない!


 これまで二人一緒に作ってきた思い出がばらばらに引き裂かれていく。どうしてだろう? 心の中では「やめて!」と声を枯らして叫んでいるのに、思い出を引き裂くこの手は、紛れもない自分の手だった。


「待ってたっくん! どうして逃げるの? 置いてかないで、ねぇたっくん――」


 逃げても逃げても、あの恐ろしい魔女の声が追いかけてくる。恐怖のせいで足がすくみ、躓いて転んでしまう。転んだ拍子に落ちていた石ころに触った。僕は夢中でそれを拾い上げ、声のする方へ向けて放り投げる。


 石ころは優子ちゃんの額で鈍い音を立てた。力任せに投げたから、絶対にあれは痛かったはず。でも、どうしてか彼女は泣かなかった。声も上げず、ただうつ伏せに崩れ落ちただけだった。長い黒髪が地面に投げ出される。倒れた拍子に赤いランドセルの蓋が空き、飛び出した教科書やノートが僕の足元にまで転がった。


 僕が肩を揺すりながら、「ごめん」と何度謝っても、優子ちゃんは起き上がらなかった。心配になった僕は、慌ててランドセルから飛び出した彼女の教科書やらノートを全部拾い集め、砂を払ってランドセルの中にきちんと戻してあげた。それでも、優子ちゃんは動かない。死んでいるみたいに、ぴくりとも動かなかった。


 周りを包む異様な静けさが長引けば長引くほど、僕の頭の中は真っ白になっていった。辛うじて頭の隅に残っている意識が、大丈夫、大丈夫と何度も繰り返し自分に伝えていた。大丈夫、きっと死んだふりをしているんだ。荷物はちゃんと戻してあげたから、僕が居なくなれば普通に起き上がって、後はいつものように好きな歌を口ずさみながら自分の家に帰っていくはずだよ。うん、きっとそうだ。


 そんなことを、ひたすら唱え続けていたような気がする。でも、よく覚えていない。はっきりと意識が戻った時には、喘息持ちみたいに息を荒らげて、自分の家の前に立っていたから。

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