第3話

 先生の長いお説教が終わって、僕らはシドウシツと呼ばれる扉の前に立っていた。僕の横で、優子ちゃんがしゃくり上げながら泣いている。先生はおでこをしわだらけにしながら僕ら二人を睨み付けて、「いい? 二人はまだ小学二年生なんだよ。大人になるまであんなことをしてはいけません」と言った。


 ――でも先生、僕らは夏休みに入る頃には離れ離れになってしまうんだ。僕はトーキョーに行ってしまうんだ。だから僕が大人になる頃には、もう優子ちゃんは遥か彼方に消えてしまっている。多分もう会えない。


 そう言い訳したかったけど、先生の顔が怖くて言えなかった。優子ちゃんがかけたおまじないは、大人になってからしか使えないものだったのかな?


「……あのね、たっくん」


 気が付けば、隣にいる優子ちゃんが、涙で濡れた手で僕の手をぎゅっと握り締めていた。


「あのね、また私の家に来てほしいの。漢字ドリル一緒にやろう。算数の宿題も。ね、一緒にやろうよ……」


 話している間もぽたぽたと涙は落ちて、彼女の履いている赤い上履きの先を濡らした。


 本当は僕一人で勉強したかった。僕の部屋の、僕の机に、僕のノートだけを広げてやりたかったのに。どうしてだろう? 優子ちゃんが隣に来るだけで、ノートに漢字や足し算を何回書いても書いても、全然覚えられなくなってしまう。頭が言うことを聞かなくなる。


 でも、ここで断ったら、僕は優子ちゃんに嫌われる。僕がこの学校から消えてしまった後も、ずっと嫌いになったまま。多分死ぬまで僕のことを嫌い続けるかもしれない。せっかく見つけた、たった一人の友達なのに、そんな悲しい別れ方するなんて絶対に嫌だ。


「――うん」


 結局僕はどうしようもなくなって、こくりと小さく頷いてしまった。



 優子ちゃんの家には何度もお邪魔したことがあるけれど、優子ちゃんのママの顔は見ることがあっても、パパの顔を見たことは一度もなかった。たまに見かけるママも、いつも口をへの字にしていて、僕が「お邪魔します」と玄関に上がっても、奥のリビングに籠ったままで何も答えてくれない。


 優子ちゃんの部屋に行く途中、家族三人の映った写真が廊下の壁に掛けてあったけれど、額縁のガラスに大きなひびが入っていた。危ないのに、どうして新しいのを買わないのだろう? 優子ちゃんの家にお邪魔する度、決まって僕は不穏な胸のざわめきを感じている。


 一度だけ、彼女の部屋で勉強をしている時に、優子ちゃんの家族のことについて聞いてみたことがあった。その際、彼女の返事はどれも抜け殻みたいに空っぽで、何の感情も詰まっていなかった。


「ママはどうしていつも不機嫌なの?」


「パパと喧嘩したから」


「……パパは家に居ないの?」


「いない」


「どうして?」


「ベッキョしてるから」


 ベッキョ? ベッキョって何? そう聞こうと思って口を開いたとき、優子ちゃんが鉛筆を置いてさっと僕に顔を向けた。その表情を見た途端、僕の体は凍り付いた。


「私、パパとママ嫌いなの。なのに……何でそんなに聞いてくるの?」


 優子ちゃんがにっこりと笑えば、僕は笑い返してあげるし、しくしく泣いている時は、優しく手を握ってあげる。……でも、あんな顔を見せられたら、僕はどうすれば良かったんだろう? 何も悪いことを言ったつもりは無かったのに。


 あの時見せた優子ちゃんの顔には、冷たさしかなかった。これまで僕と話したり遊んだりした温かい思い出も、一瞬で凍り付かせて粉々に砕いてしまうだけの恐ろしい力があった。その日、僕は優子ちゃんの家を出るまで、二人の思い出が詰まっていたはずのがらんどうな暗闇の中を、ずっと彷徨い続けていた。


 優子ちゃんの傍にいると勉強がはかどらないのは、あの時の冷たい顔が、まだ僕の頭の中に張り付いているからだと思う。 あの時以来、僕は優子ちゃんの家に行くと黙り込んでしまう癖が付いた。黙々と机に向かう優子ちゃんの隣で、覚えられもしない漢字や数字を書きなぐって、少しでもあの顔を忘れようとした。


 ――そんな勉強のやり方が良くなかったのか、次の日、僕は算数のテストで、これまでにない一番酷い点数を取った。

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