濾情

lampsprout

濾情

 ――そこのお兄さん。ちょっと、協力してくれないかな。新商品の試供品なんだけど。

 少し準備が必要だけど、大丈夫。痛くしないし、すぐに済むから。

 ――だから、ね? ぜひ、協力してよ。



 ◇◇◇◇



 俺の体内には、ひとつのカートリッジが埋め込まれている。それはとある感情を濾過してやり過ごすためのものだった。少し前、道端にいた怪しげな少女に貸してもらった。


 そして、これには1つ注意事項があった。怒りを感じるたび滴が溜まり、時折体外へ排出しなければならない。

 二の腕の内側、柔らかい皮膚に開いた空洞にカートリッジは埋めてあり、滴もそこへ溜まっていく。



「……ああ、悪い、いたのか」


 椅子の背もたれに突然人がぶつかり、弾みでデスクの書類が崩れ落ちる。わざとらしい声の陰で、周りからひそひそと話し声がした。出社した時は誰一人として俺に目もくれないのに、律儀なことだと思う。


 まあ、職場での陰湿な囁きも、入社して半年だから慣れたものだ。

 学生の頃から、俺は嫌がらせを受けることが多かった。乗りの悪さや表情の暗さも大きいだろうが、結局分かりやすい原因は、俺の足だと思ってきた。

 ――見た目からは分かりにくいが、生まれつき明らかに歩き方が不自然だった。常に引きずるような、ぎこちない動きになってしまう。体育は勿論いつも見学していた。そうして、周りからサボっているだの嘘つきだのと噂されることになっていた。


 しかし慣れているつもりでも、重要な情報が回ってこないなど実務に影響が出始めると、どうしても多少の怒りが湧いた。

 さらに、街中でくだらない事に騒いでいるクレーム客にも、あからさまに睨みつけてくる通りすがりの男にも、上手く仕事の出来ない自分にも。

 少しずつ怒りは募っていく。一瞬に忘れ去るほど僅かなものでも、塵も積もれば何とやら、確かに溜まり続けていく。



 腕からは定期的に、ポタポタと滴が落ちる音がした。あのカートリッジは大抵1週間おきに取り換えなければいけなかった。溜まった滴は毎日、風呂場で流した。

 交換の目安は数日と聞いたから、自分は比較的怒りが少ない方だったのかもしれない。それでもカートリッジを入れる前との違いが分かる程度には、気分が随分楽だった。いつしか膨れ上がりそうだった怒りは、滴となって排出されれば即座に消え失せていく。



◇◇◇◇



 週末、高校生の弟と久々に出歩いていたとき、弟の同級生らしき集団に出くわした。柄の悪そうな風貌だったが、人混みに紛れるタイミングを逃してしまった。

 そのうちの1人が弟の知人らしく、向こうから近寄ってくる。友人ではないようで、弟は少し隠れようとしていた。


 幾らか話したあとで、急に声が途切れた。


「……おい、こいつの足見てみろよ。変に曲がってる」

「お前の兄貴か」

「じゃあお前も何か変なんじゃないか?」


 くつくつと笑いながら、俺の立ち姿に異変を感じた少年たちが騒ぎ始める。弟は黙りこくっていた。

 カッと耳が熱くなり、手を強く握り締める。途端、ポタポタと、滴の音が激しくなった。


「……兄さん?」


 不安そうな声に振り向くと、身体から不穏な音がした。ぎしり、と軋んだ感覚がした。


 カートリッジが、壊れたのだった。

 気が付けば、交換期限はとっくに切れてしまっていた。今週は調子が良かったため、油断していたのだ。


 突如、ポツン、と一滴、何かが零れたような気がした。あ、と喉の奥から音が漏れた。


 ――五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅いうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい…………


 濾過されないままの濁流に、思考が呑み込まれた。その場に立っていられなくなり、膝をついて蹲る。


 少年たちは、気味悪そうに立ち去っていった。



 ――落ち着いたあと、家に帰って戸棚を見た。いつの間にか、予備のカートリッジは消えてしまっていた。二の腕の空洞も無い。



 何もかも夢だったのかもしれない。

 ……ただ、あの少女の顔は、はっきり覚えている。虚ろな瞳に、不釣り合いな明るい口調。


 だが彼女の目的は、結局いつになっても分からなかった。

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