第58話
***
「レイチェル様、少しお休みください」
薬を買って戻ってきたライリーがレイチェルにそう声を掛けた。
「ヴェンディグ様は私が看ていますから」
「でも、ライリー様だって眠っていらっしゃらないのに……」
「では、後で交代してください。先にゆっくり眠って、ヴェンディグ様が起きた時に元気なお顔を見せられるようにしてください」
ライリーに気遣われて、レイチェルはその言葉に従った。ヴェンディグを気にしながらも部屋に戻り、寝台に横になる。
(大丈夫よ……)
レイチェルは自分にそう言い聞かせた。不安に押し潰されそうな胸を押さえて目を瞑る。カーテンから漏れる日の光が気になって、うまく眠ることが出来なかった。
浅い眠りから覚めるとすでに夕日が沈みそうになっていた。
レイチェルはヴェンディグの部屋へ向かい、交代すると言ってライリーを下がらせた。
「今晩は私が付き添っています。ライリー様は十分に睡眠をとって、明日の朝、また薬を買いに行ってください」
「レイチェル様、しかし……」
「閣下のお側にいたいのです。お願いします」
ライリーは心配そうにしながらも、レイチェルの言うことを聞いてくれた。彼だって眠らなくてはいけない。
背中を火傷しているためうつ伏せに寝かされているヴェンディグは、時折呻き声を漏らしながらも良く眠っている。額の汗を拭ってやりながら、レイチェルはヴェンディグの痣の浮いた左腕をそっと撫でた。
(どうしてこの方一人が、こんな風に苦しまなければならないのだろう)
ヴェンディグの顔を見下ろして、レイチェルはきゅっと唇を噛み締めた。
本当なら、美しい容姿を持ち、寛容で勇敢な非の打ちどころのない王太子になっていたかもしれないのに。
(でも、閣下が離宮で暮らしていなければ、私は閣下と出会うことは出来なかった……)
もしも、ヴェンディグが普通の王子として過ごしていたら、きっと、彼の周りにはたくさんの人がいて、誰もが彼の魅力に引き寄せられていただろう。華やかな令嬢達だって我こそはと彼の伴侶の座を狙ったことだろう。そうだったら、レイチェルはそんな姿を遠くから眺めることしか出来なかった。
ヴェンディグとナドガに火傷を負わせたのはシャリージャーラなのか。戦ったけれど、捕まえることが出来ず逃がしてしまったのか。
そうしたら、シャリージャーラはすでに別の人間に乗り移っているかもしれない。もしかしたら、他国へ逃げているかもしれない。また一から探さなければならなくなる。
シャリージャーラを捕まえるまで、ヴェンディグはナドガと共にある。それまでは、彼はこの離宮にいて、ライリーとレイチェル以外の人間は側に置かず、ずっとこのまま。
(ずっとこのまま——)
ふと浮かんだ考えに、レイチェルはぶんぶん首を振ってそれを打ち消した。
(何を考えているのよ。こんな時に)
もしも、ずっとこのままシャリージャーラが捕まらなければ、ヴェンディグはこのままで、レイチェルもずっとこのままでいられる。
そんな考えが浮かんだことに、レイチェルは自分に対して憤った。
恥ずべき考えだと、そう思いながらも、シャリージャーラを捕まえて、ヴェンディグが自由の身になったら自分は側に居られなくなるという不安を抑えることが出来なかった。
蛇の痣が消えたヴェンディグが離宮の外に出れば、多くの人間が彼の元に集まってくるだろう。たくさんの人に出会って、レイチェルなんかより遥かに美しく賢い令嬢達を目にした時、ヴェンディグはどう思うだろう。きらきらと眩い世界を知ったヴェンディグの目に、レイチェルはどんな風に映るのだろう。
そう考えると怖くなった。
(私は、なんて浅ましい……)
ヴェンディグが自由の身になることを心の底から喜べない自分の醜さに、レイチェルは込み上げた涙を乱暴に拭った。
「……う……」
ヴェンディグが苦しげに呻いて、レイチェルははっと我に返った。
「……レイチェル?」
「閣下!」
ヴェンディグがうっすらと目を開けてレイチェルを見ていた。レイチェルは涙をぽろぽろこぼして胸の前で祈りの形に手を組んだ。
「良かった……閣下、痛みはどうです? 何か欲しい物はございますか?」
「……ライリーは……」
「ライリー様は昨夜からずっと閣下のお側に付いていましたので、今はお休みいただいております」
レイチェルの言葉を聞くと、ヴェンディグは左腕を持ち上げて、そこに痣があるのを確認するとほっとした表情になった。
「ナドガも、無事だったんだな……」
「はい。でも、酷い怪我を負っておられました。お二人とも」
零れる涙をそのままにしていると、ヴェンディグが小さな声で「泣くな」と言った。
「申し訳ございません……」
泣き止まなければと思うのに、何度拭っても涙は零れ続けた。そんなレイチェルを見て、ヴェンディグが苦い笑いを浮かべる。
「悪い。怖い思いをさせたな」
「いいえ……いいえ!」
レイチェルは涙に濡れた顔を上げた。琥珀色の瞳と目が合った時、レイチェルは自分の中にいつの間にか生まれていた想いを唐突に理解した。
(この人の側にいたい……)
家から逃げ出してきて、離宮に居場所を与えてもらった。それだけで十分だったはずなのに、もっと近くて、特別な場所を欲している。
レイチェルが自分の欲望を自覚した次の瞬間、ヴェンディグが小さく「あっ」と叫んだ。
「どうなさいました?」
「いや……なんだか少し、楽になった気がする。ナドガが起きたのかもしれない」
ヴェンディグは左腕の痣をみつめて息を吐いた。
「レイチェル、俺はもう大丈夫だからお前も部屋に戻れ」
「いえ、私は……」
「俺も、もう少し眠るから」
側に付いていたかったが、自分がずっと見ていてはヴェンディグが休めないかもしれない。そう気づいて、レイチェルは後ろ髪引かれる思いでヴェンディグの部屋を後にした。
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