第4話
***
そして今、ヴェンディグは美しい侯爵令嬢の前で間抜け面を晒していた。
「どうか、私と結婚してください!」
逃げ出すどころか求婚しだした侯爵令嬢に、思わず懐剣を取り落としそうになってはっと我に返る。
「……何を、言っている?」
「結婚していただきたいんです! お願いします!」
「正気か?」
思わずそう尋ねてしまったのは悪くないだろう。まさかこの「蛇に呪われた生贄公爵」に求婚してくる令嬢がいるなどと、誰が想像できるものか。
「ちょっと待て。レイチェル嬢には婚約者がいるだろう」
冷静になろうと息を落ち着けつつ尋ねると、レイチェルは何の躊躇いもなくこう言った。
「今朝方、我が婚約者であられた御方は妹リネットの婚約者となりました」
ヴェンディグは思わず絶句した後で、傍らに立つライリーに視線を向けた。ライリーも真顔でヴェンディグを見て、二人の目が合う。
数瞬の間の後、ヴェンディグとライリーは同時にレイチェルに視線を戻した。
「それは……貴女の婚約者が、妹御に心変わりしたということか?」
しばしの沈黙の後、ヴェンディグが言いづらそうに口にした。
ここで気まずそうに目を伏せて言うヴェンディグに、レイチェルは好感を抱いた。「婚約者を妹に奪われた令嬢」を前にして、ヴェンディグからは嘲るような気配が感じられない。
「妹は以前より私の婚約者に興味を抱いておりましたので、私に驚きはありませんでした」
レイチェルは淡々と言った。
幼い頃から、リネットは常にレイチェルの後を追いかけてくる娘だった。レイチェルが婚約者のパーシバルと会う時でも必ず一緒にいたがった。
リネットがレイチェルの持ち物を欲しがるのは、あの子に「自分」というものがないからだ。まるで幼子のように、身近な人が持つ物に興味を示しそれを欲する。自分で何かを選びとってくる力がない。
レイチェルはリネットに対して腹を立ててはいるが、リネット以上に両親に対する怒りの方が大きかった。
両親がパーシバルの婚約者をリネットに変えたのは、リネットに家に残って欲しかったからだろう。可愛げのないレイチェルではなく、自分たちの思い通りに出来るリネットに。
それは人の親としてだけでなく、侯爵位にある者として失格だろうとレイチェルは思う。
「家族の間で何があったか知らないが、自暴自棄になってこんな呪われた生贄公爵の元へ嫁ぐ前に少し冷静になれ」
ヴェンディグは呆れたように言って肩をすくめた。
レイチェルはきゅっと唇を引き結んだ。本気にされないのは当然だ。相手にされない覚悟はしてきた。引き下がるつもりはない。
「頭は冷えております。結婚が無理ならば、侍女としてでもメイドとしてでもなんでも構いません。どうか、私をこの離宮に置いてください」
理解はされないだろう。だが、レイチェルは既に家族を捨てる決意をしている、アーカシュア侯爵夫妻が結んだ縁談を受け入れないと決めた以上は、「アーカシュア侯爵令嬢」としての暮らしを享受することは出来ない。だから、もう家には戻れないのだ。
「両親は私をモルガン侯爵へ嫁がせるつもりです」
ヴェンディグとライリーがはっと目を見張った。
書斎の空気に張りつめた雰囲気が混じった。
「……流石にそれは酷いな。離宮の外のことを何も知らない俺でも、暇つぶしにライリーから噂話を聞くことぐらいある」
ヴェンディグが頬を掻きながら視線を送ると、ライリーは涼しい顔で目を逸らした。
「なるほど。モルガン侯爵と秤にかけて俺の方がマシだと判断してもらえた訳だな。おお、光栄だ」
ヴェンディグはカウチに座り直してレイチェルを見つめて目を細めた。
レイチェルは不躾にならないよう程々に焦点が曖昧になるように気をつけながらヴェンディグの目を見返した。
まだ短い時間向き合っただけだが、ヴェンディグからは病的な雰囲気も呪われた者の悲壮感も感じ取れない。
彼はこの離宮でどんな暮らしをしているのか、レイチェルはふと不思議な気持ちになった。
「ならば、俺から陛下に頼んでやろう。アーカシュア侯爵夫妻を説き伏せて、レイチェル嬢にふさわしい縁談を与えるように。それならばいいだろう」
「いいえ。閣下に貰っていただけないのであれば、私はここを出て修道院へ参ります。家には帰りません」
修道院へ行くための足もなければ寄付金も用意できないので、実際にはここを出ればレイチェルは野垂れ死ぬだけだ。紹介状がなければ働くことも出来ない。
レイチェルは少し声を強めて訴えた。
「閣下、私は両親が思いもつかないことをしてやりたいのです」
リネットに「欲しい欲しい」とねだられ、両親がそれ咎めないどころか焚き付けていることに気づいた時、レイチェルは新しいドレスを作ることをやめた。使用人に頼んで古い服を探してきてもらってそれを身につけた。両親は烈火のごとく怒ったが無視した。
「両親は、私に泣いたり悲しんだりして欲しかったのだと思います。自分ではどうしようも出来ないと思い知って、両親に頼ることを期待されていたのだと思います」
両親が、そうやって常に子供達より優位に立っていたい、優位であることを確認したいのだと、レイチェルが気づいたのは侯爵家を継ぐための勉強を始めてしばらく経った頃だった。
家庭教師がレイチェルを「優秀だ」と褒めそやすのを両親は喜ばず、その頃からレイチェルよりリネットを優先するようになった。
リネットは気に入らないことがあるとすぐに泣き出す子だった。「あらあら、仕方がないわねぇ」「リネットは泣き虫だなぁ」と、上から押さえつけるようにリネットの頭を撫でる両親の姿にレイチェルは違和感を覚え、まるで両親がリネットの泣き虫を直さないようにしているように思えた。
子供に立派に育って欲しいのではなく、いつまでも何も出来ないままでいて欲しいと望んでいるように見えたのだ。
「今回も私が泣いて頼んで許しを請うことを期待しているのでしょう。ですが、私はその期待に応えたくありません」
レイチェルはアーカシュア侯爵夫妻が求める「可愛い娘」ではなかったし、そうなろうとしなかった。
「ですから、両親が思いもつかない方法でこの目論見を潰してやりたいのです」
そんな自分が愛されなかったのは、自業自得なのかもしれない。けれど、レイチェルは自分が間違っているとは思えないのだ。
これが借金を返すためとか、商売で優遇してもらうためとかいった理由のための婚約なら我慢できた。だが、今のアーカシュア侯爵家にどうしてもモルガン侯爵の助けを借りたい理由など存在しない。
つまり、これはただただレイチェルを屈服させたいがための婚約なのだ。貴族令嬢として、家族と領民を守るための婚約ならば受け入れることが出来ただろうが、単なる嫌がらせで結ばれる婚約には我慢ならない。
「わかった」
しばしの沈黙の後、ヴェンディグがふっと息を吐いてレイチェルに告げた。
「貴女が自分の両親を説得できたなら、望みを叶えよう」
ヴェンディグはそう言って、ライリーにアーカシュア侯爵夫妻を呼ぶように国王陛下へ伝えるように言いつけた。
レイチェルは肩をふるっと震わせた。今さら喉が渇いてきて、ごくりと唾を飲み込んで拳をぎゅっと握り締めた。
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