16.Regret
人を刺した経験がある人など、一体どれだけの数いるだろうか?
「早く外してよ、お姉さん。うずいてきちゃったよ」
「ちょっと待ってな坊や、今楽しませてあげるからね」
俺はふとそんなことを考えながら、このリドーと言う女が、俺の手錠を外すのを待った。
突発的にやってしまった人、不意の事故で、結果的に刺してしまった人なら、きっとたくさんいるだろう。実際、そういう話はよく聞いたことがある。
「動くんじゃないよ。怪我でもしたらフイになっちゃうからね」
リドーはそう言って、俺の手錠に鍵をつけて、開け始める。
計画的にやるとなると、その数は一気に減少することだろう。明確な殺意を持って、冷静に相手の首元を狙って刺せる者など、ごく一部だ。
「ほら、開いたよ」
そう言われて俺は、手が自由になったことを確認する。そしてすぐ、手のそばにあったものを、取った。
……まさか自分が、その『ごく一部』になるだなんて、思いもよらなかったけれど。
「……は?」
リドーはあっけに取られている。それもそうだろう。
いきなり自分の首筋に刃を刺されて、気丈に振る舞えるのなら、それはきっとこんな奴じゃないさ。
それに気づいたのはついさっきだ。老朽化した水道管の破片か、はたまた何か拷問道具の片づけわすれか。とにもかくにも、力いっぱい突けば刺せる程度には鋭利なものが、まこと都合よく、俺が縛られたすぐそばにあったのである。
「……が、テメェ。クソガキィ……!」
……しかし、やはりそこまで都合のいい話なぞないようだ。
先端が潰れていたのだろう。刺し傷が思っていたより浅い。
急がなくてはいけない。
俺はリドーの近くによる。
狙いはただひとつ、手錠の鍵。
奴がまだ混乱している間に、あの手錠を取って、イトたちを助けなくちゃいけない
間に合うか? 取れるか? いや、取らなきゃいけない。
クソ、悩んでる暇はない。
(神様……!)
俺はここぞとばかりに神に祈って、カギを取ろうとした。
……神に祈った程度でそんなに上手くいくのなら、誰も苦労しないだろう。
「ガキがァッ!」
重い蹴りが、俺を襲った。
軽く吹き飛ばされる。
「ガハッ……!」
「ハリくん!」
ルーラの悲痛な声が聞こえる。
チクショウ、痛え。
鍵は……クソ、ダメだったか。
「このゴミが! たかだかオスのくせに、優しくしてりゃあつけ上がりやがって!」
リドーはそう言いながら、倒れた俺を、激しく何度も蹴ってくる。
「このゴミ! ゴミが! テメエみてえなのは、黙って女のをなめてりゃそれでいいんだよォ!」
「ぐ……グァッ……!」
あーあ、ボスに傷つけるなって言われたのに。
もう何回蹴られただろうか。他人事のようにそんなことを考えてしまうくらい、もはや痛みで意識がもうろうとしてきた。
蹴られている最中、何かがカツンと落ちる音がしたが、そんなことを気にする余裕もない。
ああ、本当に死ぬのだろうか? ふと、そんな考えが頭をよぎった。
「フゥッ……フゥッ……! 起きろガキ!」
ひとしきり蹴ってある程度気が晴れたのか、リドーは俺の髪を掴んで、無理矢理顔を上げさせる。
「おい、まだ寝るなよガキ。どうだ? あたしが受けた痛みと屈辱はこんなもんじゃねえぞ。望み通り、朝までたっぷり楽しませてやるさ」
きっと俺の姿は今、ずいぶんと無様なものだろう。
悪い、イト、ルーラ。
あんまり、助けてやれなかった。あんなに助けてもらったのに。
すまない。
「おい」
そんな声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。
「あん?」
リドーがそう言って、声がした方向を見る。
瞬間、彼女の首に、刃物が突き刺さった。
イトが、その首を刺していた。
「アッ……ゴボッ……!?」
しかも今度は、さっきみたいに浅くない。喉を貫通するのではないかと言うくらい、深く深く、刃物の根までを突き刺していた。
「どうだ? あたしが受けた痛みと屈辱はこんなもんじゃねえぞ」
ひどく冷徹な、突き刺すような目をリドーに向けて、実に抑揚のない声で、イトはそう言った。
「ッ……」
リドーは何も言えず、ただ口をパクパクとさせながら、イトの方に手を伸ばす。
あれはもう、助からないだろう。
俺は黙って、イトの方を見た。
彼女がリドーに向ける目は、憎しみと怒りに満ちていた。
リドーはそのまま地べたを這って、ズルズルとイトに近づく。
1歩、2歩、3歩。
その途中まで、足を動かしたところで、彼女が伸ばした手は、地面に落ちて。
そして、こと切れた。
「……ざまあみろ、豚女」
感情の無い声で、静かにイトはそう言った。
きっとそれは怒りだったろうし、憎しみだったろう。彼女が未だリドー『だった』ものに向ける目は、憎悪と恨みが込められている。
けれど、なぜだろうか。
俺はそんな彼女を見て、酷く哀しい気持ちになった。
親とはぐれて泣きじゃくってる子どもを見るような。
何故だか、そんな風に見えた。
「ハリくん!」
俺がイトを見ていると、ルーラが俺の方に駆け寄ってきた。ひとまず、見た目ほどダメージはないみたいだ。
「ハリくん、大丈夫!? 怪我は!?」
「いや、平気だ……ていうかイト、ルーラ、お前ら手錠は?」
「さっきリドーが、イトの近くに落としたんだよ。アイツ、ハリくんを蹴るのに夢中になって、落としたことにも気づかないでやんの」
……そういえば、蹴られてる最中に、何か硬いものが落ちた音がした気がする。あれが手錠の鍵だったんだ。
となると、俺の行いも案外、まったくの無駄だったというわけでもないようだ。
「とにかくここから出よう。ルーラ、銃は?」
「リドーがアッチの部屋に持ってってった。多分取ってこれると思う」
「わかった」
「イト! アンタもボーっとしてないで……イト?」
ルーラのその言葉に、イトは何も反応しない。先程から顔を伏せて、その表情すら読み取れない。
「イト、どうした? どっか痛いんじゃ……」
「ハリ」
イトはそうやって食い気味に、俺の名前を呼んだ。彼女はそのまま顔を上げる。
酷い顔だった。まるで涙を流さないで、泣いているような。
「お前さ、もうロジーのものになれよ」
彼女はその顔のまま、そんなことを言ってきた。
……イトのその言葉に、俺はしばらく反応できなかった。
俺はただ目を見開いて、彼女の泣きそうな顔を見ていた。
「……ハ? ハァッ!? 何言ってんのアンタ! こんな時にふざけないでよ!」
イトのその言葉に、ルーラは激昂する。しかしそんな彼女にも、イトは何も反応せず、ただただ俺から目を逸らしている。
「……本気なのか?」
俺は静かに、なるべく刺激しないように、イトにそう聞いた。彼女は震えたように、口を開く。
「だってさ、見たろ、お前も? ケダモノみたいに、お前に襲い掛かる私をさ」
「何言ってんだ。あれは薬に操られて……」
「違う!」
イトは突然、叫んだ。それは半分泣いているようにも聞こえた。彼女は続ける。
「違うんだよ、薬のせいじゃない。あれが本当の私なんだ。醜い化物の……」
彼女はそう言って、自分の肩を抱く。俺の知ってる彼女だったら、絶対しないようなポーズだ。
「……どういう意味だ?」
「……今回みたいなことは初めてじゃないんだ。小さい頃から何度も、私はリドーやロジーにここに連れてこられて、その度に何度も殴られながら『便所』になった」
なるほど、彼女がリドーに向けた目の意味が分かった。
トラウマ。幼少期の頃からここに連れてこられて、それはそれは酷い目に遭ったのだろう。
「殺してやりたいほど憎んだ。でも違う。違ったんだ」
「……違う?」
「殺されるべきなのは、私だったんだ」
独白、という言葉がこの状況に似合うだろう。
いつの間にやらイトは、自嘲と悔恨、そのどちらともつかないような表情をして、涙を流し始めた。
「私は、ハリを犯そうとした。お前を見た瞬間、全部を忘れて、犯したくてたまらなくなった。私を犯してきた、殺したいほど憎んだあの化物共と同じ、私も化物だったんだよ……」
ポタポタと、涙がこぼれ始める。
「……だから、ハリは私と一緒じゃダメだ。一緒に居たら、私はきっとまた、」
彼女はそう言って、また顔を伏せた。
「イト……」
「……つまり、一緒にいると傷つけちゃうから、それならさっきの赤毛のところに行けって、そう言ってんのか?」
ルーラの呼びかけにも応じないイトに、俺はただそう聞いた。
「……ロジーのところなら、私と一緒にいるよりはマシさ。黒髪黒瞳だし、そこそこいい扱いをしてくれるはずだ」
……なるほど、彼女は本気で言ってるのだろう。
自分といると傷つけるから、それならと。
きっと彼女も断腸の思いで言っているだ。ここまで固い意志で言われてしまったら、もはや仕方ないだろう。
「イト」
俺はイトの名を呼んだ。すると彼女は、ビクリと震えて、その言葉の先を待っている。
やることも決まった。後はただ、彼女に一言二言、言うだけだ。
「ふざけんな」
俺はそう言って、彼女のボロボロの服の、その両肩を掴んだ。
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