14.Fears

 自分を守っていた存在がいきなり襲ってくるという恐怖は、およそ体験したものにしかわかり得ないだろう。

 そんな映画を昔観たことがある。狂った父親が、母親と息子を殺そうとする話。

 今の状況は毛色こそ違うものの、それを想起するには十分だった。


 イトは俺に口づけをした。攻撃的で暴力的な、噛み付くような口づけを。


「ブハッ! イト、正気に戻れ、おい!」


 俺は口づけをなんとか振り払い、彼女を見た。目の焦点が定まっていない。瞳孔が開いており、苦しさを感じさせるほど息が荒い。

 どう見たって、正気ではなかった。


「ハァッ……ハリ、ハリ!」


「ああクソ、チクショウ!」


 イトは聞く耳も持たず、次は俺の首筋に噛み付いてくる。

 激痛が走る。彼女のそれはもはや、喰いちぎるかのような力だった。

 抱きしめる力が強くなる。肉がえぐれそうなほど痛い。


 彼女のそれはもはや、甘い感情を抱かせるものではなかった。

 捕食。

 文字通り彼女は、俺を喰おうとしていた。


「クソッタレ!」


 否応もなく、俺は彼女を蹴り飛ばすしかなかった。


「ガハッ!?」


 さすがのイトでもそれには耐えられなかったのか、俺から離れてその場にへたりこんだ。

 彼女を見る。口には首筋を噛んだときについたのであろう、俺の血がこびりついていた。


「アッ……ハ……!?」


「……お目覚めか?」


 恐らく正気に戻りかけているのだろう。イトは俺を見て、愕然としている。ルーラが彼女に近づく、信じられないものを見たような顔をしていた。


「何やってんのさイト! あんた正気!?」


 その鬼気迫る問いかけに、イトは何も答えない。いや、何も答えられなかった。


「ハリ……あ、私……」


 俺から流れる血を見て、彼女は自分のしたことをだんだん理解したのだろう。それは、およそ普段の彼女からは想像のつかないような、怯えたような表情だった。


「イト、いいか落ち着け。大丈夫だ、な? 大丈夫……」


 俺はできる限り平静を努めてそう言った。しかし意味もなかっただろう。彼女の顔を見ればわかる。

 イトはただただ震えていた。自分の口についた俺の血を拭いながら。


「……ママ・ロザリア、どういうことだい、これは?」


 奥の方から、ベルさんの声が聞こえた。あの赤毛の女性もいるようだ。


「もう気づいているのでしょう? あれが、あなたの知りたがってたことの正体」


 彼女は飄々とした態度を崩さず、ベルさんにそう答えた。彼女は続ける。


「『クリーピーローズ』とは、男性用の『錠剤』。あれは、『嘘』を支配する薬よ」


「……生憎、コミック作家のような詩的表現は専門外でね。具体的に説明して頂きたいのだが?」


「そうね、ええ……私、彼をここに連れてくる前に、ちょっとしたイタズラをしたのよ」


「『クリーピーローズ』を飲ませたのだろう? そういうことではなく……」


 ベルさんがそこまで言うと、赤毛の女性は彼女の唇に手を当て、その先を遮った。代わりと言わんばかりに、女性は口を開く。


「飲ませた後、私は彼にこう言ったわ」


 女性はほんのチラリと、俺を横目で見た。

 少しの静寂。

 彼女は続けた。



「『貴方に近づいた女は、貴方が愛しくて仕方なくなってしまう。愛しくて愛しくて、唇を欲し、血を欲し、最後には食べてしまおうとしてしまう』」



 遠目なのでよくは見えないが、何も言わない様子からして、ベルさんは絶句しているのだろう。


「……テレビドラマの話ではないのかい? 流行りそうにもないな」


「あらあら、科学者が可能性を否定するなんてらしくありませんわよ、博士?」


 ベルさんが信じられないのも、仕方ないだろう。俺だって未だに理解しきれてないのだ。

 だってそれは、まさに予言をつくるようなものだ。

 俺に近づいた誰かの行動を、自在に操ることができる薬。

 そんなものは薬じゃない。もはや、魔法だ。


「とは言え、誰にでも使えるわけではないわ。行動を操れる対象は、一定量の脳内ドーパミンが出ている者のみ……つまり、服用者に対して、好意的な感情を持つ者にしか使えない」


「……なるほど、だから『彼』か」


 ベルさんは嫌なものでも見たような、しかし何か確信したような顔で、俺の方を見た。それを見て、赤毛の女性は可笑しそうに笑った。


「本当に、素晴らしい手土産を持ってきてくれたものよ、イトも」


 彼女がそう言った時、ルーラに支えられていたイトが、身体をビクリと震えさせる。見ていられなかったのだろう。俺はそんな彼女から、思わず目を逸らした。

 そうして数秒間。

 赤毛の女性が口を開く。


「50億ラル」


「……何?」


「うちの経理部門が算出した、あの『クリーピーローズ』を使ったことでもたらされる収益価格。その『最低』予想価格よ」


「……凄まじいな。小国のGDPを超えているじゃないか」


 彼女たちから聞こえてきた話は、およそ聞きたくもないような、あんまりに馬鹿げた内容だった。

 『ラル』と言う単位はよくわからないが、価格と言っている当たり、恐らくエルドラ合衆国の貨幣単位なのだろう。ベルさんの言う通りちょっとした国以上となると、おそらく億という単位で足りるかも怪しい、そんな現実感のないレベル。

 バカげたことに、俺にその価値があるのだと、あの赤毛はのたまっている。


「ベル博士、私、世界を買う予定ですの。貴女も一口乗りません?」


「……ふむ、私になにをしろと? ママ・ロザリア」


「科学者として、興味があるのではないかしら? あの薬の可能性に」


「ちょっと、待ってよ!」


 女性とベルさんの会話を聞いていたルーラが叫ぶ。イトは、ただ項垂れただけで、何も反応しない。


「ベル、まさかあんた裏切るの!?」


「異なことを言うな。私は薬を調べただけだ。君たちについたつもりはない」


「ふざけ……!」


 ルーラは言い切る前に、思い切り殴られた。赤毛の女性と一緒にいた、大柄な人だ。


「イギッ……!」


「静かにしな。焦らなくったって、アンタらにはまだお楽しみがたっぷり残ってるさ」


「リドー、テメエ……!」


 ルーラは頬から血を流しながら、リドーと呼んだ女性を睨みつける。

 赤毛の女性は、イトに近づいて、実に冷徹な目で見下ろす。イトは彼女を見上げた。実に怯えた顔で。


「そろそろ効果が切れてきたでしょう? 薄めに配合したのよ」


「あ……違う、私は……」


 イトは何かを言い返そうとしていた。けれど、言葉が詰まって、もはやそれ以上の言葉は出てこない。


「何が違うのかしら? 貴女ひょっとして、自分があの男の子を護る騎士ナイトか何かだとでも思っているの?」


 何も言い返せないイトに、女性は更に言葉を続ける。追い詰めるように、一言一言しっかりと。


「そんなわけないじゃない、イト。だって、今の彼を見てみなさい」


 イトは、ゆっくりと俺の方を見る。初めて見る表情だった。受け入れ難いものを見たような、涙を流さないで泣いているような。


「彼を見なさい。首から流れるあの血を。貴女が傷つけたのよ」


「ッあ、あ……」



「貴女も、他の女と同じ。薄汚れたその手で、彼を穢したいだけなのよ」



「ッ……う、おぇ……」


 耐え切れなかったのだろう。イトは目に涙を溜めながら、胃の中のものを吐き出した。


 そんなことはないと、言うべきなのだろう。

 イトのに近づき、その手を取って、君は俺を守ってくれたんだと、そう言うべきなのに。

 俺はただただ、彼女のその姿に、ただ呆然とすることしかできなかった。


「……リドー」


「はい」


「イトたちの再教育をお願い。『彼』は傷つけないようにね」


「ええ、喜んで、ママ・ロザリア」


 そんなやりとりを終えると、赤毛の女性はベルさんと一緒に部屋を出て行った。


 イトは、ただ弱々しく震えるばかりで、伏せてしまったまま動かない。

 俺はそんな彼女に、どんな言葉をかけてやればいい?


 神様、もしいるのであれば、教えてくれ。

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