「カリスマ」に囚われた「蜘蛛」

 帰り、こゆちゃん以外は上り電車で帰る。


 俺とこゆちゃんは赤い弾丸と呼ばれる私鉄の下りで帰る。


 途中まで全く同じ方向なのにもかかわらず、会話が弾まない。


 あの「楽器論」を聞いてしまったからだ。


 いろいろと思う所が出てきてしまう。


 こゆちゃんは島村楽器で買ったおにぎり型のピックを見ながらニコニコしている。


 彼女が途中で降りてしまうのは解っているのに、もっとお話しをしたいはずなのに・・・。




 あっけなくこゆちゃんとは別れる事になったのだが、彼女との楽しい時間があった夜、俺は布団の中で考える。


海人「こゆちゃんのカリスマ・・・」


 あの楽器論を聞いてから、考え続けていたのはこれだった。


 俺はこゆちゃんに恋していると思っているが、それは錯覚なのではないかと。


 蛍光灯の放つ光に群がる蛾の様に、引き付けられているだけなのではないかと。


 どうしてこの発想に辿り着いてしまったかと言うと、恋をしているにしては全く性的興奮が襲って来ないからである。


 愚か、体に触れる事すらできないのだ。


 こゆちゃんのパンモロを見た時も、勃起するどころか老婆心すら芽生えたくらいである。


 そして同時に、こんな仮定も考え出した。


海人「俺のカリスマ」


 桑藤さんへ徹底的に手を出すには、これが最も有効である事にも気が付いた。


 庶民が政府に従う様に、信者が神に逆らえない様に。


 こゆちゃんがいるが故に起こす行動の理由が「カリスマ」であった場合、これからやろうとしている事は俺にとって非常に危険な事であり、かなり高確率でほぼ無意味な結果を生む事になるだろう。


 それどころか、将来を棒に振りかねない。


 だが、その時の俺は、自分の不利益になる事は考えなかった。


 考えたくなかったのかもしれない。


 逆に、全てをやり切り結果が出た時、何か得る事を確信していたのかもしれない。


 とにかく、現状に満足できない俺は、その歯痒さを解消する為、作戦を急ごうと決意する。


 桑藤さんへ、新しいアクションを起こそう。


 前回は行き当たりばったりで策士の陰謀にも飲まれかけたが、今回は初めから全体像を固めて実行に移そう。


海人「カラオケに誘う」


 桑藤さんの暇な日を聞き出し、カラオケに誘う。


 個室で二人きりになり・・・そうだ、思いっきり気まずい空気を作ろう。


 色恋ネタを連想させる空気を作り、次回以降学校で会う度に必然と意識してしまうような記憶を刷り込んでやろう。


 その後、俺の誘いに乗らなければゲームセット、再度誘いに乗ってくれればもうレールに乗ったも同然だ。


 なんだ、簡単ではないか。


 圧倒的ではないか我が策は!!


 できた、ほぼできた。




 明日、桑藤さんに暇な日を聞こう。




 翌日。


 俺はルンルン気分だった。


 スタジオでビブラートが出せるようになったあの日くらいにルンルンだ。


 ブレない自分に最高の調子を感じている。


 この時にはもうこゆちゃんがどうとかと言う考えは飛んで行っていた。


 目標は、目的は、やる事はたった一つ。


 桑藤さんの身体だ。


 彼女の身体を取り敢えず手に入れる。


 いや、手に入れる必要まではないか。


 手が届くだけで良い、それで俺の目標はほぼ達成する。


 恐らくにやけていたかもしれない俺の思考は、下駄箱でシフトする。


 学校、今日は調理実習のある日だ。


 午前中に実習をし、そのまま昼飯。


 食い物にありつけるのは大体13時過ぎなので昼食と言うには遅いのだが、それが毎回恒例だ


 教室へ上がりカバンを置くと、


石井「おっはよ、あの後どうだったの?」


 女神たまおはようございます、今日もお美しいですね。


 あ、昨日おかずにするの忘れてた。


 実習服姿の石井さんは何か期待しているような表情で近づいてきた。


海人「おはよー。 あんまり話さなかったわー。 何話していいか解んなくなっちゃったって言うか」


 今俺の頭の中は桑藤さんへのイタズラ戦略でパンパンに詰まっているので、こゆちゃんの事までは考える余裕がありません。


 実習着をカバンから出しながら適当に返事をした。


石井「じゃれたりしなかったの?」


 眉を上に上げながら聞いてくる石井さん。


 なんだ? 驚いてんのか??


海人「いやー、できないよねー流石に急には」


 手のひらを顔の前で「ナイナイ」して、半笑いで返答する。


石井「えー! 楽器屋であんなに楽しそうにお喋りしてたのに、肘で突っつくくらいもできなかったの?」


 お、おぉ、そのくらいはできたのかも?


 そんなこと考えもしなかったぜ。


海人「うーん、しなかったわー」




石井「三波君腰抜けじゃん!」




 ええええええええ!!


 こっ、腰抜けとか生まれて初めて言われた!


 そんな結構な声のボリュームで俺の事ののしらなくても良くない!?


海人「わーゴメンナサイ!!」


 謝っちゃった。


 それ以外は言える言葉が無かった。


 そして二人のやり取りを見てた周りがクスクスと笑っている。


石井「全くもーだね全く、せっかくチャンス作れたと思ったのに」


 両眼を閉じて口を「ムッ」とする石井さん、かわいい。


 が・・・あの、ハイ、その通りですハイ。


 とか思いながら、チラッチラッとあの子を探してみる。


 居ない。


 休まれると計画の実行が遅れるので困るのだが。


 と考えたら、とあるものが頭をよぎる。


海人「今、誰か包丁研ぎに行ってるかな?」


 唐突に石井さんへ聞いてしまう。


 この学校の生徒は、放課後に包丁を研いでいく生徒が少なくない。


 残りは包丁持ち出し許可申請を出し、持ち帰り、自宅で研ぐのだ。


 前日の研ぎや持ち出しを忘れた場合、授業開始前に研ぎをする人がいる。


石井「え、判んない。 何で?」


 何でと聞かれても桑藤さんを探していますとは答えられないので、


海人「あ、俺前回研ぎサボったから、実習前に研いだ方がいいかなって。 でも人いるとなんか気まずいじゃん」


 そんなこと全然ないけど、今はそう言っておく。


 それ以前に、俺は研ぎが得意だし、研げる時にはやってしまう性分だ。


 後でやる方がめんどいし。


 朝に研ぐとか絶対にしないし、誰に見られても全然恥ずかしくなんかない。


石井「え? あ、そうなの? あれー、なんか珍しいね」


 いつも放課後やっちゃう派なのバレてるなコレ。


 そりゃそうだ、俺が研いでる時大体石井さんいるもん・・・。


 そう話しながら桑藤さんの机を見ると、カバンがかけられてる。


 ヨシ、彼女来てるな。


海人「どっちにしろ実習着に着替えないとだから、石井さん一緒に男子更衣室いく?」


 真顔で聞いてみる。


石井「行かないよって!」


 お、稀に見るちょっと恥ずかしそうな石井さんの表情、かわいい。


 早く行って来なさいと言わんばかりの「シッシッ!」をされ、教室から退散する俺。


 こうして女神の審判から逃れた俺だが、そう言ってしまった以上着替え終わっても教室には戻れない。


 実習室へ行く理由も無いので、更衣室で時間を潰す事にする。



 実習開始前、皆より早く調理場へ行ってみる。


 するとやはりと言うべきか、桑藤さんは包丁を研いでいた。


 しかしこの時間にまだ研いでいるのは少々時間が危ない。


 うちの学校は研ぎの後磨きもやってワンセットと言うルールがある。


 つまり開始時刻にめり込んでしまう可能性があるのだ。


 気になってしまい、桑藤さんの声をかける俺。


海人「おはよう、間に合いそう?」


 桑藤さんは一瞬俺に顔をやると、すぐまた手を動かし始めた。


桑藤「ぺティーナイフ使ってたなかったから研ぎ始めたはいいんだけど失敗しちゃって時間かかって・・・」


 おいおい、今研いでるのは牛刀でしょ??


 普通そっち先じゃないのか?


 と思ったが、もうそれどころではない。


 いつも通りに二本指で丁寧に磨き上げている桑藤さん。


 絶対にそれでは間に合わない。


海人「今講師も先生もいないから、俺にやらせて」


 生徒の所有する刃物にはそれぞれの名前が掘ってあり、本人以外が研ぐことは愚か触れる事も許されていない。


 しかし桑藤さんは危機的状況を察してか、願いを俺に託してくれた。


桑藤「ごめん!」


 すぐに柄を俺に向ける桑藤さん。


海人「急いでいる時は、箇所を研がないで全体を一気に整えたほうがいいよ」


 俺はバイト先で幾度となく研ぎをやっていた為、、研ぎ方から来る刃物の切れ味や刃物への影響の実践とイメージトレーニングができていた。


 通常調理師学校で習う包丁の研ぎと言うのは、大体「指を置いている箇所」で刃先から研いでいくやり方なのだが、実はこれ、素人にとっては非常に難易度が高く、歯の薄さもまばらになりやすい。


 海人琉「全体を一気に整える」とは、歯の一番真っ直ぐに長い箇所を砥石の一番平且つ面積の広い箇所に当て、刃先、中央、柄付近の3か所をそれぞれ薬指、中指、おや指で押さえ、ほぼ全体を一気に磨く方法である。


 コレは力を入れれば入れるほど全体の歯が片方に反れ安くなるため、反対を研ぐ工程に移りやすくなる。


 この研ぎをやると必然と刃先にであるカーブ側も反対に反れてくれるので、簡単に歯を作る事ができるのだ。


 だが、これは切れにくくなりやすくなるというデメリットがある事も桑藤さんに伝えながら研ぎ終わる。


海人「だから次研ぐ時はいつもの倍くらいしっかりと歯を付けてあげてね、研いだ箇所が丸くなりやすいからこの方法は」


桑藤「解った」


 何とも聞き上手な子である。


海人「ほい出来た、磨いて!」


 包丁を桑藤さんに返す。


桑藤「やったありがとう!」


 既にクレンザーとコルクを用意していた桑藤さんは、ササッと磨きを始める。


 いや・・・あれ? 逆になんでそんなに早く黒ずみを落とせるのか教えて欲しいんだが・・・。


 撫でてみたくなるほどきれいに磨く桑藤さん。


 ・・・俺が教授できる立場だったのか疑えるほど完璧な仕上がりだった。



 1時限目に講習、レシピの確認と講師が実際に調理をして見せる。


 ここでポイントとなる箇所や、効率的な動きなどを習う。


 そして2時限目から仕込みの開始。


 これが終わると一旦休憩し、後は終わるまでノンストップだ


 3時限目からは一気に慌ただしくなる。


 ほかの調理師学校では調理場で各担当が決まっていて、調理実習中はそれを最後までやり切るのが普通だと思うのだが、うちの学校は各品を一人づつ最初から最後まで献立通りに作り上げるのだ。


 その日に作るメニューが3品以上であった場合、同じ班の人が後に控えていたりする為、正に地獄と化す。


 こうなるとたった一人で仕上げるのが困難であるため、同じ班の仲間に指示を出してサポートしてもらう必要が出てくる。


 これが中華とかであるとその必要性が増し、いじわるにもスピードが要求されるメニューが多い為、サポートが絶対条件である。


 この学生には不慣れな「効率・指揮・正確さ」を一気に養わされるのがうちの学校の調理実習なのだ。


 つまり、2時限目終わりの休憩は、ただ緊張感が増すだけのインターバルでしかない・・・。


 ここで俺は作戦に出る事にする。


 調理場のすみで椅子に座り、パックのジュースをちゅーちゅーしている桑藤さんのもとへ向かう。


海人「どう? 切れ味大丈夫そう?」


 自慢をしに来た訳ではないのだが、これが普通の流れだろう。


桑藤「あんな研ぎ方があるなんて知らなかったよ。 何も問題なく切れるよ、すごいね三波君」


 また知らない発言か。


 何も知らない子のレッテルを張りたくなったよ君に。


 てか、今回の事に関しては知らなくて当然だし、講師も絶対に教えないと思う。


 現場と言うものが生み出す苦肉の策なのであろうから。


海人「俺も人に教わって身につけたものだから、すごいって程じゃないでしょ」


 でもね、そんな事でも褒められれば誰だって嬉しい。


桑藤「お礼をしなくちゃお母さんに怒られちゃうかも」


 ちょっとした手伝いに、親は関係ないだろ・・・。


 何故母親が出てくるのか知らんが、お礼についてはウェルカムです。


 ・・・お礼?


 絶 好 の チ ャ ン ス キ タ コ レ !


 そうなのか、僕は今君にやましいお願いをできる立場なのだね?


 今だ、今聞くしかない。


海人「じゃ、今度桑藤さんが暇な時、遊びに付き合ってもらおうかな」


 遊びに付き合ってもらう・・・ふふ、面白い事を言うじゃないか俺。


 喋りながら頭の中で次にどうすればいいのかが浮かんでくる。


 しかも、しかもだ、桑藤さんはかなり律儀な姿勢だ。


 お礼なんてしなくても、その事実を知らなければ親なんかには怒られるはずはない。


 桑藤さんには使命感がある、もらった恩は返さねばならないと言う決まりがあるんだ桑藤さんの中には。


 何ていい子なんだ桑藤さん、敬意に値するよ。


 居ないよそんな子、今時そんな子はいない。


 そして俺で知るといいよ、良からぬ事を考えている輩はすぐ近くにもいるって事を。


海人「次の金曜日さ、俺開いてるんだけど桑藤さん何してる?」


 右手を腰に当て、左手で首の後ろを撫でながら聞いてみる。


 意外と恥ずかしいものだな、女性を誘うってのは。


桑藤「何かあったかな? 思い出す方が難しいかも」


 相変わらずジュースを両手で持ちながらの桑藤さん、足を前後にブランブランさせてる。


 思い出す方が難しいとか、予定無しって事であってるよな?


 待てよ、この言い方とこの仕草・・・まさか照れ隠ししてるのか?


 桑藤さん、もしかして君は本当に俺が想像している通り圧しに弱い子なのか?


 だとしたら・・・もう容赦しない。


 次の一手で確信に近づくよ。


海人「そっか、じゃあ俺もこの間付き合わせちゃったお礼をしなきゃならんし、明日の放課後開けておいてよ。 遊び行こ」


 明日は金曜、包丁を持って帰る用事が無ければ、そのまま遊びに行ける。


 さぁ、どうするね桑藤さん、君は何て返答をするの?


桑藤「あ、うん行く」


 決まった。


 前に聞いたことあるよ、そのトーンで言う同じセリフを。


 そして俺は期待していたんだそれを。


 君はどうやらツボにハマってしまったようだ。


 そこで実習再開の合図を講師が鳴らした。


 それは試合開始のゴングにも聞こえるのにぴったりなタイミングだった。


 俺は少しだけ桑藤さんの耳に近づき、小さめの声で伝える。


海人「皆には内緒ね、冷やかされそうだから」


 すると彼女は小さくうなずき、腰を上げ、ちゅーちゅーパックを椅子に置いた。


 それを確認した俺はこれまた小さく手で挨拶をして班に戻る。


 桑藤さんは見た事が無いはにかみでそれに答え、班に戻った。


 さぁ、ここまでの準備はできた。


 そして俺はこれから起こる事を想像すると「クモの巣にかかった蝶が暴れる振動」を感じているような気がして、初めて味わう興奮に歓喜していた。

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