第一章 終話~上書きの噂~

絵師は、兄弟子の計らいでしばらく屋敷に逗留することになった。

最初でこそ体中が痛み、寝返りすらも辛かったが、ほどなく、痛みも引き、自由に歩き回ることができるようになった。

兄弟子は、絵師を屋敷からなかなか解放せず、長らく引き留めた。

この兄弟子が絵師が巻き込まれた怪異の責任は自分にあると思っているらしいことは判った。

それだけではなく。今回の怪異に随分と興味があるらしい。

兄弟子は忙しい合間を縫っては絵師を捕まえ、根掘り葉掘り話を聞きたがり、絵を描かせたがる。

絵師は大恩ある兄弟子には頭が上がらず、仕方なく言われるがままなっていた。

とはいえ、あまりのしつこさに絵師が少々辟易し、兄弟子をチョイとつついた。

「兄様、そういう怪異のお話がそんなにお好きとは知りませんでしたよ。」

兄弟子は顔をしかめたが、絵師に協力させた手前もあり、無下にはできなかったようだ。

いつもは絶対にすることのない、武家としての仕事の話をかいつまんでしてくれた。

もちろん、絶対に内密に、との念押しもあった。こんな駆け出し絵師の話を誰が信じるのか、と言い返すと笑いながら話始めた。

「実は、この烏太夫の話に出てくる殿様、というのは知己なのだよ。

 それが、お前が葬送地でみつかった翌々日の朝、お隠れになった。ちょうどお前と葬送地に行った頃だそうだ。」

絵師は呆然とした。

「その殿様がお前の絵を持っていたことは先日話した通りだ。

 そしてな。その後、どこから流れたのか、怪異話に尾ひれがついて、敵の殿様が遊女の妖に祟られて亡くなったとの噂が広まった。

 まぁ、どこから出た噂かは想像がつくがな。

 そこで、家老の腹心だった家臣が私に相談にやってきた。かつて吉原で怪異話として噂になり、いまだに語られる話を消せないか、と。

 その家臣は間者を預かってたそうだから、さぞかし寝覚めが悪かったんだろうな。」

「はぁ。」

絵師は曖昧に相槌を打つ。

「でだ。殿様が江戸で入れ込んでいた遊女が明烏だということを知っているのは今や、家老と私くらいになっているが、家老は伏せってしまいどうにもならない。

殿様がお隠れになった後、遺品に明烏への思いを綴った手記が見つかったんだが。これがまた、赤面ものでなぁ。

他人には絶対に見せられないほどの純情ぶり。

ならば、その手記を利用して件の敵討ちの噂を純でお綺麗な人情噺にすりかえれば良い、と考えたのだ。」

「…。」

「そこからは楽しかったぞ。件の茶屋の主人ら怪異好きの風流仲間と先日の怪異話の真相を聞いたと言って夜会を開いてだな。

 烏太夫と殿様は互いに敵であることを知っていたが、世間は敵討をしなければ許されない。ならば互いに手をとりあって…。

 で、殿様はその夢を死ぬまでずっと見ており、死んでようやく二人は手を取り合ってあの世へ…。という話をした。

 そしたら、お前、みんな勝手に背びれ尾ひれにお頭までついて、今流行りの心中話に勝手に仕上がっていったんだぞ。

 しかも、吉原の敵討の怪異話とはまったく違う話になったから、何が何だかわからなくなった。

 いやぁ、面白い上に、隣藩には恩を売ったし、いいことづくめだな。」

楽しそうに語る兄弟子をまじまじと見て…この兄弟子の風流人の面の後ろは遣り手の貉に違いない…。絵師は本気で思った。

絵師を引き留めている理由も絵師を心配してのことだけではなく、貉の思い通り噂を広めるためであることも察したのだった。


ならば、世話になるのは別に恩でもなんでもない、と絵師は開き直った。

この屋敷に逗留する間、兄弟子の許可を得て庭を写生したり、庭に来る鳥を描いたりし、兄弟子の家人や客人に請われるまま、似顔絵を描いたりと退屈することなく過ごした。また、お節介にもただ屋敷にいたのでは腕が鈍るだろう、と兄弟子は自ら絵合わせの会を催し、絵師に風流仲間たちの眼前で絵を披露させた。花鳥風月を得意とする兄弟子とは違う絵師の美人画は風流仲間の間でも評判が良く、ちょっとした小遣い稼ぎになる絵仕事も舞い込んできた。


ついでに兄弟子の風流仲間の料亭や料理茶屋の主人から、世間に疎い絵師も巷の噂話を聞くことができた。

江戸では、今「傾城君」という女形の役者がもてはやされているらしい。

なんでも舞の名手で、芝居の幕間に披露された「遊女と殿様の純愛」を謳った舞で演じた遊女が儚くも美しいと評判になっているのだそうだ。

それを聞いた絵師は目を剥いた。

兄弟子が種をまいた怪しい噂がもう江戸に伝わり、舞にまでなってもてはやされているのか。

なんと世間は狭くて恐ろしい…。絵師はぞっとした。


 絵師がこの地に来たのは、蛍狩りの頃だったが、今は二度目の月見の頃となった。

江戸を空けている間に火事が相次いだのをはじめ、災いが続いたらしい。兄弟子の藩にも江戸普請が回ってきた。この遣り手の兄弟子は普請の采配のため再び江戸家老として江戸藩邸に詰めることになり、早々に江戸に発つことになった。

道中がつまらないからと、兄弟子から一緒に江戸へ向かわないか、と求められた絵師は兄弟子に同道して江戸に戻ることにした。

この地には半年近くいたことになるが、最初の三夜以上の出来事はなかった、と絵師は振り返った。

葬送地近くを通った時、絵師は心中ひそかに手を合わせて烏太夫を偲び、この地を後にした。

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