第一章 五夜~葬送地~
絵師が目を覚ますと、そこは見知らぬ座敷の一室だった。
身体を無理矢理起こすと身体中が軋んで痛みが走った。まるで全身が悲鳴を上げているようだ。
下女と思われる者が様子を見に来たが、男が起き上がったのに気付き、あわてて廊下を戻っていった。
障子から入る光は淡く、夕方の刻限と思われた。
遊郭のお座敷で妖艶な烏太夫の絵姿を描いた後、しばらく考え事をしていたことまではハッキリと覚えている。
が、その後のことは、頭の中に靄がかかったようだ。
にしても。ここはどこなんだ?
少なくともあの遊郭の店中ではない。
烏太夫も店の主人も、あの賑やかな店の女たちもどこに行ったのか。
痛む身体に鞭打って立ち上がり、障子戸を開けてみるとあの店の苔むした中庭ではなく、手を尽くされた立派な庭だった。
廊下にそって歩いてみたが、どこをどう見てもここは自分が慣れ親しんでいる遊郭ではない。
寺か武家の屋敷か…とにかく行きなれていない、初見の場所であることには違いない。
いつもは楽天的な絵師も途方に暮れ、廊下にペタンと座り込んだ。
しばらく、整然と整えられた、枯山水の庭を眺めていた。
泡のように浮かぶのは、あの遊郭での出来事。たった三夜とは思えないが、既に過ぎ去り、戻ることはない。
枯山水にしかれた白い玉石が夕日の色を映し始めた頃。
「もう、体はよいのか。」
落ち着いた低い声に絵師が振り向くと、そこには兄弟子である、江戸家老が立っていた。
絵師はあわてて居ずまいをただそうとして、身体中の痛みに呻き声をあげた。
「まだ無理をしない方がよい。」
「あ、ありがとうございます、兄様…。どうぞ面前のご無礼をお許し下さい。」
兄弟子は、思ったよりしっかりした絵師の声に安心したのか、堅かった口許が少し和らいだ。
「ここは、兄様のお屋敷だったのですね。私はいったい…」
兄弟子は苦笑いを浮かべ、座り込んだままの絵師を見た。
「こちらが聞きたい。だが、その前にきちんと養生せねばな…。お前は鳥辺野の葬送地に大の字で倒れていたのだから。」
絵師は今までで一番驚いた顔をした。
「え…?」
「…なんだ、お前は己が何処に居たかも気付いてなかったのだな。これはじっくり話す必要がありそうだ。」
絵師も訳が判らないまま、こくこくと頷き、同意を示した。
兄弟子は苦笑いをしながら、屈んで絵師に肩を貸し、寝かされていた部屋まで共に戻っていった。
夜半を過ぎて明け方が近づく頃。
烏太夫こと翠は開けたままの窓からまだ明けやらぬ暗い外を眺めていた。
「…明烏。お前の殿様は先ほど逝ったようだよ。…あんたはこれで良かったんだな?」
「ええ。翠のおかげで夢幻の敵討の噂を立てることができるでしょう。これで世間は私が敵討ちを果たしたと密やかに広め、私の呪は消えます。」
「…あれが敵討ねぇ。あんなものただの茶番劇にしか見えないんだがな。」
茶屋の主人の着物を着込んだ明烏は苦笑いを浮かべた。
「それで良いのです。世間なんてそんなもの。面白ければ、それで好いのですから。」
翠も苦笑いを浮かべた。
「確かにそうだ。…なぁ、明烏。あんたはさぁ、敵討の呪なんて本当はどうでもよかったんじゃないのか?
あの殿様と遊びたかっただけと素直に言ったらどうだ?」
「そうとも言えるかもしれませんね。確かに私は楽しんでましたから。」
明烏は微笑み、翠は顔をしかめた。
「ああ、そうかい。まぁ、いいだろう。私はお前との約束は果たしたからな。」
「そうですね。翠、もう十分果たしてもらいました。
…そういえば。討ち捨てられた私の身体は翠が食べてくれたのでしょう?」
「あぁ。それが報酬だったからな。
でなきゃ、こんなにも長い間、夢幻の遊郭を維持しながら、お前そっくりに化けつづけてなんかいられないさ。」
翠の妖らしい言葉に明烏は苦笑いしたが、すぐに真顔になった。
「翠、今までありがとう。
これで、やっと全ての呪から解放されました。私はようやく素直な気持ちを抱いて、あの世へ旅立てます。
ともに冥土へ行こうと誓ったあの方にはあと少し、入口でお待ち頂こうかと思っています。」
「…手に手を取っての冥土行き、ねぇ。ま、それがあんたの望みだったからな。叶えられて良かった。
…にしても、あんたの最期は悲惨としか言えなかった。それでも結局はあいつを恨むことも憎むこともできなかったんだな。」
明烏は遠い目をして思い出を手繰っている。
「ええ。私は郭に身売りしたときから、武家あがり、というだけでいつも敵討ちのことばかり言われました。武家から遊女になったのは、一家離散の恨みを晴らすためだろうと…。」
「ふうん…。その「敵討ち」がお前にとって呪になったんだな。」
「…はい。そりゃ、御家断絶により一族郎党すべてが取潰しに合ったのは言葉にならないほど辛かったですわ。…でもね、今さら復讐したところで、あの幸せだった日々は還ってはきません。」
「そうだな。」
「生き延びた私は今を精一杯過ごすだけのつもりでしたが…周りが何かと要らぬ話を持ってくる。私も流行り話が好きな振りをして聞かねばなりません。何せ…遊女も客商売ですから。」
「そりゃそうだ。」
明烏の言い様に翠はふっと笑った。
「そうして、縛られていったのです。そんな中、私を救ってくれたのが殿様でした。」
「ふぅん、そうなのか?」
明烏は顔を上気させて、初めて恋した乙女のような表情をして話し出した。
「翠は知らないことかも知れませんが。あの頃の殿様もこの里での様子と同じでした。私を天女だとおっしゃって、お忍びで何度も私を尋ねて来てくださいました。内密に上がられる時だけ、私に小さな、本当に他愛ない可愛らしい贈り物を用意して下さいました。その品物を真剣に選んだお話を伺うのは…それは楽しくて。何よりも和んだのです。」
明烏の表情は曇った。
「それが…。今思えば、敵討ちの呪は私だけにかかったものではなかった。ご家老やその周りの者にも討たれる側としてかけられていたのですわ。
あの家老の間者は普通では知り得るはずのないことまで良く調べていたようでした。
ならば、私の出自など疾うに調べ上げて知っていたでしょうし、殿様にも知らされていたでしょう。
それでも殿様は床入に来られた。
それが私には驚きでもあり、うれしくもあったのです。
あの晩、互いに呪に縛られた者同志、心中…つまり、私は殿様を討って私も共に逝くつもりでおりましたし、殿様も同じつもりだと言っておられました。手に手を取ってあの世で結ばれたいと…。男と女なんて、そういうものなのでしょうか。」
翠は横目でちらりと明烏をみた。
「私に聞くなよ…。妖の私にそんなこと解りようがないんだから。
ああ、ところで、家老だが。なんでも自我を失ったきり、だそうだ。
策士策に溺れる。自分の罪悪感は策のうちに入ってはいなかったんだろうな。…あれは自滅だ。」
「そうらしいですね。罪悪感を持っていたことだけでも驚きでしたけど。これで皆の溜飲も降りたことでしょうね。こちらは私も同情できないですから。」
「…そうだろうな。…さて明烏、そろそろ旅立つがいい。逢引もあまり待たせるのは無粋だ。私が冥土の入口まで送っていってやる。あとは好きにするがいい。」
明烏は本来の天女のごときたおやかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、翠。でも、逢引に待たせ過ぎは無粋だなんてよくお分かりじゃないですか。」
翠は重い緞子の打掛を脱ぎ捨て、振り返ると明烏に手を伸ばした。
二人の手が触れると明烏の姿は消え、翠も一羽の美しい羽根色の鴉に姿を変えた。
「…私は短気だからね。待つのは嫌いなんだよ。ではゆこうか、明烏。」
翠の声が響いた。鴉が羽根を拡げ北の空へと飛び立つと、そこにあった街は霧散し、朝霧にけぶる荒れ野へと景色は変わった。
まだ朝霧深い早朝、絵師とその兄弟子は再びその地を訪れた。
絵師の身体を案じつつも、一晩じっくり話をし、その流れで兄弟子が絵師を見つけた場所へと繰り出したのだ。
絵師の体はまだあちこち痛み、篭も辛かったが、とにかく気が逸り、じっと耐え抜いた。
着いてみれば、あちらこちらの景色には確かに見覚えがあるが、どうやっても昔から今までずっと荒れ野であったようにしか見えなかった。
「ここには立派な花街があったはずなのに…」
絵師はわざわざ懐にしまって持ってきた烏太夫の絵姿を取り出した。
紙に写し取られた天女は今も愛らしくも妖しく微笑みかけてくる。
それを覗き込んだ兄弟子は、上手いもんだ、と感心したように呟いた。
「…確かにこのお方はいたんだ…。」
兄弟子もふっと笑った。
「そうだな…。私も確かにお会いしたよ。お前とは別のところで、だがな。さて…どちらに行かれたことやら。」
「はい…」
二人の会話に合わせたかのように、
美しい羽根色をした一羽の烏が荒れ野に現れた。
わずかにけぶる朝霧の中、絵師の目には長い髪を束ねた美しい烏太夫が見えた気がした。烏太夫は絵師の方を振り向くと微笑み、すぐに消えた。
そして、烏も朝霧を散らすように羽ばたき、まだ暗い北の空へと飛び去っていった。
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