水と風が眠る場所・ウィンデア。
「行き先はウィンデアだ。空気中の魔力の流れが不安定な空域だが、構わないか?」
風と水の濃密な魔力が周囲に存在するウィンデアは、魔導船のような魔力で動く乗り物にとっては面倒なことがある。飛んでいると、時折、機体の制御が難しいときがあった。
それなのに魔導船が必須という、面倒な場所だった。
「構わないぜ! けど、ウィンデアとなると、あまり上は飛ばないほうがいいな」
「空気中の魔力の濃度か」
「ああ。レムリアならどうとでもなるが、直ったばっかりだし、様子を見ながら飛ばしておきたいんだ。それでもいいか?」
腕組みをして考えたラグナが、
「レン、どうだ?」
「大丈夫ですよ。ウィンデアの中層付近の岩肌に近づけてもらったら、あとは俺たちでどうにかしましょう。体力には自信がありますから」
「結構だ。俺も構わない」
「でもラグナさん、魔物が出没する場所でも大丈夫ですよね?」
「何を言うのかと思えば、おかしなことを」
ラグナがパチンと指を鳴らした。
宙に現れた空間のひずみから、数本の鎖が飛び出してレンの右手に絡みつく。何らかの特別な魔法を行使したことは明らかだった。
「……よく考えたら、鞄の旅人が戦えないはずなかったですね」
レンが左手で鎖を軽くつかみ取り、指先に力を込めると砕け散る。冬を超えさらに洗練された纏いの力が、ここでも強さを垣間見せた。
ラグナが上機嫌に口笛を吹き、
「Cランク程度の魔物なら、完全に身動きがとれなくなる鎖だったんだが」
「……そんな力をいきなり使わないでください」
「すまない。俺が戦えることを示すための近道だ。しかし、相変わらず剛剣使いの中でも剣聖は化け物だな」
あっさりと解かれてしまったことが、いまなお衝撃的だった。
「見ての通り俺は戦えるから問題ない。レムリアを岩肌の近くに停めてもらえたら、あとは俺とレンで野営をするだけだ」
「とのことなのでヴェルリッヒさん、レムリアの操縦をお願いできますか?」
それから「任せとけって!」と分厚い胸板を勢いよく叩いたヴェルリッヒが「げほっ!」とむせた。
どうにも締まらない光景に、レンは気が抜ける思いだった。
数日後の学院が休み日の朝には、同じドックにレンがリシアとフィオナを連れて足を運んだ。
三人はウィンデアへ行くわけでなく、レムリアにはじめて乗船して空へ向かった。
弾丸にも見た上部の両翼が開き、空を泳ぐように揺れ動く。開けたドックからゆっくりと外へ姿を見せ、そのまま優雅に高度を上げた。
たとえるなら空に道があって馬車が進んだらこのくらい、という静かな飛行だったから、甲板に出て、手すりから周りの景色を見ることだってできた。
この三人以外にはヴェルリッヒが一人いるだけで、その彼は操舵室にいた。
上昇が落ち着き、一段と緩やかな飛行をするようになると、
「わぁ……すごくキレイです……!」
「ねぇレン! こっちに来て! 帝都があんなに小さく見えるの!」
感動する少女たちの近くに行って、レンも周りの景色を見た。
エレンディル上空から見る景色は何度か経験しているが、窓越しにだった。
実際に甲板に立って見下ろすと、それだけで別世界に来たように感じる。
「でも、俺たちだけでよかったんですかね」
せっかく直ったのだから、リシアたちも交えて一度空を飛んでみるのはどうかという話からいまがある。
それなのに、レザードたちの姿はなかった。
「……お父様たちは今度でいいって言ってたものね」
「ええ……私も、レン君たちと楽しんできなさいって言われました」
「……気を遣っていただいてるみたいですから、その分楽しみますか」
レンたちだけで楽しんでほしいという大人たちの気持ちに感謝し、空の旅を楽しむ。
近くを白い鳥たちが飛んでいた。
リシアのすぐ近くを過ぎ去る際に、彼女はその風になびく髪を手で押さえる。
フィオナはスカートを軽く手で押さえながら、レンの隣に歩を進めてきた。
「このくらいの高さなら、甲板にいても平気ですね」
高い場所にいることへの恐れではなく、単純に風の強さだ。外へ落ちてしまわないように色々な仕掛けもあるという。これまでと同じように景色を楽しんでいた二人が、ウィンデアのことを話しはじめる。
「……本当は私も一緒に行きたかったんですが」
フィオナが申し訳なさそうにしていた。
「でも、試験を優先しないといけませんから」
「そ、そうですよね……」
「それに今回の依頼は俺が個人的に引き受けたものですしね」
「むぅ」
「あの……え? どうしてそんなじとっとした目で俺を……?」
四年次に進級したフィオナは、他の学年の生徒が休日なのに試験があった。
だが元はといえば、
だとしても、そこはレンに協力したいという乙女心が存在した。
「――――少しだけでも、惜しんでくださったら嬉しかったなぁ……」
レンに聞こえない本当に小さな声での呟き。
しかし大切な試験を休ませることなど、できやしない。
また、リシアは学院へ行ってクロノアと会い、神聖魔法の調子を確かめる大切な予定があった。連休を有意義に過ごせるようにというエステルの厚意もあって、彼女に剣の稽古をつけてもらう話もある。
長官は休んでくれない。獅子聖庁の騎士がよく言う言葉だ。
獅子聖庁の騎士たちからも是非に、という声が上がっていたと聞く。
「とはいえ、フィオナ様がいてくださったら心強かったと思います」
「っ~~ほ、ほんとですか!?」
感情がたかが十数秒でこうも上下してしまうなんて、考えてもみなかった。
フィオナは後日、レンが出発する日にもこのドックに足を運んだ。レンが乗るレムリアが見えなくなるまで、リシアと一緒に見送った。
◇ ◇ ◇ ◇
連休初日に、帝都を発つ魔導船があった。
英爵家が合同で管理しているもので、デウスと呼ばれている白い威容の魔導船だ。
先日、修理が終わったレムリアも同じ中型に該当するが、こちらはより大きく、倍の人数が搭乗できそう。居住空間の過ごしやすさは特筆すべきものだ。
七英雄の伝説でも、数多くのイベントが発生した重要な空の移動手段だった。
そのデウスがつい先ほど、水と風が眠る場所・ウィンデアに到着した。
ウィンデアは剣の切っ先を上に向けて突き立てたような岩々が中央に向かうにつれてより高く、何層にも積み上げられた地形全体のこと。
見上げればすぐに、ウィンデアの上層が雲を突き抜けていた。
山肌。
あるいは岩肌の中でも人が歩けるところから十数メイルほど距離を開け、魔導船が停泊した。魔道具を操作してタラップを伸ばし、ヴェインをはじめとした面々がウィンデアへ降りる。
見下ろせば各所から流れ出る水が途中から霧になっている様子や、大自然の中に生きる動物や魔物たちの営みが窺えた。
見上げれば神殿までどのくらいかかるのだろう、と誰もが思った。
「ふっふっふー。さっすがネムの運転だね。ばっちりだよ!」
一足先に降りていたヴェインたちの背に、ネムが声をかけた。
運転は誰か別の操縦士がいるわけではなく、このネム・アルティアが担っている。
存在感のある胸元を強調するかのように胸を張った彼女が、ふふん、と得意げに笑う。
彼女はこの歳にして、魔導船の運転を完ぺきにこなしていたのだ。
「あのよー、ネム、やっぱりもっと上に停めたりできないのか?」
カイトがウィンデアを見上げながら問いかけた。
周辺にある土の道は複雑に入り組んで上へつづいているのだが、気になるのは、目指すべき神殿までの距離だろう。
もっと高い場所に停泊できたらずっといいのだが……。
「ネムもそうしてあげたいけど、大変かなー。ここより上は空気中の魔力の中でも、風と水の属性が強くて飛行が安定しないんだもん」
魔導船に使われている魔物の素材や、魔力をはらんだ鉱石が不規則に影響を受けてしまうことで、魔導船の動作に異変が生じることもあるという。
いままでウィンデアに来ることができなかった理由も関係しており、
「
ウィンデア特有の氷で、毎年、夏が終わるとほぼ同時に生じるもの。
この山のいたるところがその氷で覆われ、山登りをすることは自殺行為に等しい。純粋な氷ではなくこの地の魔力に充てられた氷のため、魔法で溶かそうにも容易ではなく、分厚く降り積もった雪もあって登るのは難しかった。
特に、ヴェインたちとレンたちが考えていた道はほぼすべて水晶氷に覆われる。
さらに強風の存在も無視できない。冬場は特に強烈な風だ。
入念な準備をするならそれにも時間がかかるから、結局は春にならないと出発することはできなかっただろう。
いまだって、夏になる前だから各所に氷が残されていた。
この時期でやっと、どうにか登山できるくらいの状況だった。
「もちろん、カイト君が無茶して遭難したいなら手伝ってあげるけど」
「……ま、たまには野外訓練だと思って頑張るか」
「そうそう! 訓練だと思えばネムたちにとってもいい経験になるし!」
それでもネムの頑張りで、かなり高いところに停泊している。
ヴェインは頂上にあるという神殿がある方角を見上げ、「よし」と声に出す。
「みんな、無理はしないでほしい。俺のために怪我でもしたら申し訳ないからさ」
彼が仲間たちに振り向いて言うも、
「ばか。私たちがしたくて来たんだから、気にしないの」
セーラが言ったことをきっかけにシャーロットが、ネムとカイトが首を縦に振った。
これで五人。となれば誰か足りていないということになる。まずは欠けていた一人が魔導船の出入り口から現れ、タラップを抜けて降り立とうとしていた。
大きな杖を手にしたリズレッドだ。
「安心していいですよ、ヴェイン! 私がいればどんな魔物が現れても恐れるに足りません!」
ヴェインは彼女の魔法がどれほど頼りになるかも知っていて、素直に頼もしく感じていたのだが、
「ほえ?」
タラップを歩いていたリズレッドが足を滑らせる。
急いで駆け出したヴェインに身体を支えてもらえたものの、手にしていた大きな杖はタラップを転がり、地面にあった岩にコツン、と衝突。
リズレッドが大口を開け、唇の端をふるふると揺らしていた。
「あああああぁー!? わ、私が三年と二か月分のお小遣いを貯めて買った杖がああああああ!」
「だ、大丈夫だって。あれくらいじゃ壊れてないはずだし」
ヴェインがリズレッドから手を放し、落ちていた杖を手に取る。
割れたり折れ曲がったりなど、気になる点は一つもない。
そのことを彼がリズレッドに言えば彼女は胸をなでおろしていたのだが、杖の上のほうに傷を見つけ、愕然と膝をつく。
「やるじゃないですか、ウィンデア」
自分の失態を責任転嫁されたウィンデアにしてみればたまったものではないだろうに。
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