掃除をして、少しずつ仕事がはじまって。
空き部屋の外で掃除に勤しむ三人の姿が見えた。
レンは三人に「おかえり」と言って迎えられ、引きつづきの掃除に勤しむ。
しばらく時間が経ち、日が傾き締めた頃には掃除がほとんど終わっていた。
「クロノアさん! こっちの古い本はどうしますか?」
「待ってね! いま行くから!」
木箱に押し込まれていた古い本を示したレンと、木箱の中から一冊の本を取り出して確認するクロノア。
クロノアは例によって杖を軽く振って埃を掃った。
「古い魔物が載ってる本だね。こういうのって、一部でも情報が古くなると入れ替えちゃうんだ」
「でもしまいっぱなしってのも、勿体なくないですか?」
「うん。ボクもそう思うよ。でも図鑑とかって新版が出るとすぐに入れ替えちゃうんだ。この学院の方針とか色々なことがあるんだけど、勿体ないからボクが倉庫に運んでたんだよ」
「では別に、情報が古いってわけじゃないんですか?」
「ものによってはそういうのもあるかな。でもこういう図鑑は古い魔物の情報が記されてるものだから、ほとんど変わらないよ。間違い探しの方が難しいくらい」
「へぇー……じゃあ、たとえばここの部屋の中に置いててもいいんですね」
「だね! 本棚も綺麗になったから並べておこっか。レン君たちが暇なときに読んでもいいだろうし!」
そう口にしたクロノアが木箱の中に風を送り、埃を掃う。
レンは綺麗になった本を抱えて部屋の中へ運び、本棚に並べていく。
最後の一冊を並べようとしたとき、レンはその表紙に目を向けた。
(――――『
それはもう気になるタイトルだったこともあり、今度読んでみようと思った。
更に掃除をつづけること数十分、
「三人ともお疲れ様っ! 帰りにご飯くらい奢らせてもらおうかな!」
うんと背筋を伸ばし、気持ちよさそうに息を吸った四人。
クロノアの魔法で埃を払うことは容易なのだが、汗もかいたから、女性陣はシャワーでも浴びようという話になっていた。
レンもついでにそうすることにして、学院の施設を借りることに決める。
すると、歩いている途中で、
「そう言えばクロノア様、今年は課外授業がないんですよね?」
リシアが言った。
「だねー……でも今年だけじゃないよ。バルドル山脈の事件以来、ずっとだから」
(そういや、本当ならこの時期だったっけ)
話に出た課外授業は、一年次の特待クラスが入学前の最終試験のように森へ向かうものだった。通称、遠足である。
しかしそれは、クロノアが言った理由で最近は行われていない。
仮に行われたとしても、レンが想像するようなことにはならなかっただろうが。
「……イェルククゥもいないしな」
レンの呟きを聞いたリシアが首を捻り、
「どうしてイェルククゥの話が出てくるの?」
こてん、と首を寝かせて疑問を口にした。
レンは慌てて「い、いえ!」と手ぶりを交え、
「森と聞いて、昔のことを思い出しただけなんです!」
「あっ、そういうことね」
しかしながら、意外と違いがあるものだ、と。
レンは思いのほか自分が多くの違いを作り出していたことを考えながら、密かに達成感を覚えていた。
◇ ◇ ◇ ◇
レンとリシアはエレンディルへ帰るため駅にいた。
二人は駅のホームに向かう前に立ち止まり、互いの顔を見た。
「レン、まだ元気だったら獅子聖庁に寄っていかない?」
「いいですね。そうしましょうか」
二、三時間ほど剣を振ってから帰れば、そう遅くない時間に屋敷に着くだろう。
エレンディルに向かう魔導列車には乗り込まず、二人は官庁街へ向かうそれに乗り込んだ。
この時間はどこも混み合っている。リシアはレンが何も言わずに自分を守るように傍に立っている姿が嬉しかった。
二人が官庁街に着いた頃は、また一段と空が暗くなっていた。
「レンはこの前、長官殿とお会いしたのよね?」
通い慣れた獅子聖庁への道の途中、リシアが言った。
「はい。学院があるのであまりご挨拶はできなかったんですが」
「教えて教えて! 長官殿ってどういう方だった?」
「説明するのが難しいんですが……剛剣技をそのまま体現したような、苛烈で実直なお人という印象でしょうか」
レンははじめて会った日のことを思い出して語った。
エステルはただ強いだけではなく、長官としての威厳に満ちた人物であることは間違いない。
言葉を交わした時間は僅かだが、それだけははっきり言えた。
「長官殿はもう帝都にお帰りになったのだし、しっかりご挨拶させていただく方がいいわよね……」
「そう思います。ただ、お忙しい方だと思いますので」
「確かにそうだが、今日のような日もある」
「いやいや……あの獅子聖庁の長官殿ですし、そうでもないはずが――――」
「ええ。だから、どうしたらいいかしら――――」
二人はおもむろに足を止めた。ぴたっと示し合わせたように。
彼ら二人は何も言わずに互いの顔を見て、首を捻る。まさかと思いつつ、自然に混じっていた声が聞こえた背後に振り向いた。
「その心がけや良し。挨拶は基本であるからな」
そこには、軍服を夜風に靡かせる一人の女傑が立っていた。
「だが堅苦しい挨拶は貴族相手だけで――――いや、聖女は貴族だったか。まぁいい。いずれにせよ堅苦しいのは好まん。普段通りの態度で私と接しろ。それと長官と呼ぶ者は部下だけで十分だ。私が両親から貰った立派な名を呼べ」
エステルがそう言えば、
「長官! 急に姿が見えなくなったと思えば……って、お二人ではありませんか」
エステルに遅れて獅子聖庁の女性騎士が姿を見せた。やってきた騎士はリシアと度々剣を交わしていたこともあり、レンもまたよく話すことのある女性だ。
いま、彼女の手には大きな紙袋が二つあった。僅かに空いた口から、ほんのりと香ばしい香りと共に湯気が立つ。
「それは皆に届けてやれ。私たちの分だけ貰っておこう」
「わかりました。ところで長官は?」
「私はこの二人と話がしたい。書類仕事は疲れた。もうしたくない」
「はいはい……文官には私から伝えておきますから、ごゆっくり」
エステルは騎士が持つ紙袋から何かを三つ取り出した。薄い紙に包まれた丸い何かで、甘い香りを放つ湯気が立っている。
騎士を見送ってから、エステルは手にしたそれを一つずつレンとリシアに渡した。
残る一つは自分で持って、二人を連れて歩き出す。
エステルが向かった先は獅子聖庁の敷地内であるものの、普段、レンたちが足を踏み入れる神殿のような建物ではない。
敷地内にある庭園の中で、噴水などが並んでいた。
エステルはその噴水の縁にある段差に腰を下ろし、二人を見る。
噴水の前に座って髪と外套を靡かせる彼女は、その雰囲気が良く似合っていた。
「それは私が好きな甘味だ。疲れた身体に甘いものは沁みるからな」
エステルが言うには部下への差し入れだと言う。
「私は獅子聖庁の部下や文官にそれをよく買っていてな。もっとも、甘いものが嫌いな者もいるから無理強いはせんが、通りにおいておけばすぐになくなるくらいにはいい味だぞ」
そう言われ、レンとリシアは顔を見合わせた。
ここで遠慮するのも悪いと思い、互いに紙に包まれたものを見る。
包み紙を開けると、そこにはふわっとやわらかいパンがあった。
「中にクリームが入っている。くくっ……大の大人が、それも獅子聖庁の者らにこんな甘いものを差し入れるなど、面白いだろ?」
「いえ、すぐになくなるあたり、皆さん喜んでると思います」
「私もそう思います。こんなにいい香りを漂わせちゃうと、仕事で疲れた方たちもつい手に取ってしまいそうですよね」
それを聞き、気をよくしたエステルがパンをかじった。
つづけてレンとリシアもかじると、中からまだ少し暖かいクリームが溢れ出る。
「これ、もしかして大通り沿いのお店のですか?」
「ん? 知ってるのか?」
「
「味はどうだ?」
「は、はい! すごく美味しいです!」
「それはよかった。店主にも伝えておく」
自然とリシアの頬が緩んでしまうほどのおいしさに、レンも舌鼓を打った。
パンを食べ終えたところでリシアが居住まいを正した。これまで急な出会いと、エステルにやや気圧されて自己紹介が遅れていた。
「申し遅れましたが、リシア・クラウゼルと申します」
「うむ。もうすでに知っていると思うが、私はエステル・オスロエス・ドレイクだ。陛下からいくつかの領地を預かり、伯爵としての地位も頂戴している」
ところで、とエステルがつづける。
「どうやらリシアは護衛を連れていないようだな」
「はい。帝都は治安がいいですし、傍にレンがいてくれますから」
そうでないときはヴァイスを連れて歩くことがあれば、たとえばセーラと出かける際はリオハルド家の護衛がいることもある。
話を聞き、エステルが最後の一口を堪能した。
「そう言えば――――私も話には聞いているぞ、レン」
「何をでしょう?」
「その若さで剣豪級なのだろう? 先日も見たが、私が愛する部下たちを好き勝手していたではないか」
「そ、その節はご迷惑を………」
「何が迷惑なものか。朝の訓練を邪魔したのは私だし、私の部下を好き勝手していたのは私の部下が弱いからだ。くくくっ、部下たちもいい刺激になってるだろう」
事実、エステルは帰国してすぐに驚いた。
彼女の留守を守る獅子聖庁の騎士たちが弛んだ態度でいるとは思っていなかったのは当然のこととして、彼ら騎士たちが彼女の想像以上に奮起していたからだ。
そこにレンとリシアという、若い才能が関与していたことは明らかだった。
「また相手をしてやってくれ」
それから三人は色々なことを話した。
エステルは特に自分が不在の頃のラディウスが気になったのか、レンとラディウスの出会いから根掘り葉掘り尋ねた。
他にはレンとリシアの剣の話などを。
「二人はエドガーに剣を教わっていると聞いた」
「はい。ただエドガーさんは最近忙しいみたいで、俺もあまりお会いできていないんです。――――というか、やっぱりエドガーさんのことはご存じだったんですね」
「同じ剛剣使いとして数える程度だが、獅子聖庁で顔を合わせたことがあってな」
ユリシスとも数えるくらいしか話をしたことがないそうだ。
だが一応、ユリシスも軍務関連の仕事をしていたことがある。だが同じ部署にいたわけではないらしく、互いに忙しい身とあって特筆すべき交流はなかった。たとえば同じ会議室に足を運んだことなどはあっても、そのくらい。
互いに互いの評判を知るのみ、ということになるだろうか。
本当は剣を振りに来たところではあるが、レンとリシアにとってもエステルとの会話はためになるものもあり、没頭した。
一時間も話をした頃には、
「もういい時間だ。二人はそろそろ帰りなさい」
訓練をするならもう少し遅くまでではあるが、今日は事情が違った。
エステルも仕事があることは二人も知っていたから、素直に頷いて頭を下げる。
「今日は私たちに時間を割いていただき、ありがとうございました」
「また今度、獅子聖庁でお会いできる日を楽しみにしています」
「ああ。気をつけて帰るように」
エステルは座った姿勢のまま二人を見送った。
彼ら二人の後姿が小さくなっても変わらず、エステルは彼らをじっと見つめながら目を細めた。
「――――さて、どうしたものか」
その呟きにどのような感情が込められているか、そもそもの真意が何なのかは決して語られなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
休み明けには実行委員の仕事が本格化して、レンは多忙を極める。
実行委員は各種目に参加する代表生徒をまとめたり、代表選考が必要な種目で教員と協力してその準備をした。
そうした日々が少しずつ過ぎた、ある日の学院内で。
七月のはじめに迫る獅子王大祭の代表選定に向けて、生徒たちの間にも少しずつ緊張感が漂いはじめていた。特に武闘大会は獅子王大祭の華とも呼ばれているからか、生徒たちの注目の的だ。
「三年と四年の先輩もすごいけどさ、レオナール先輩はやっぱ別格だって! 間違いなく代表に選ばれるだろ!」
「そういや、武闘大会の代表って何人だっけ?」
「四人じゃなかった? 一つの学校から四人まで。年代は問わないって書いてた気がするわ」
レンが昼休みの廊下を歩いていると、いたるところからそうした会話が聞こえてくる。
(正しくは、前回優勝者を出した学校は一人多いだけで、本当は三人なんだけどね)
彼は廊下の窓枠に身体を預け、声に出すことなく指摘する。
これが良いことなのか悪いことなのか論ずる気は彼の心に微塵もない。
だが結果として、獅子王大祭で開催される武闘大会は、ここ数十年ずっと帝国士官学院が優勝している。
が、当然と言えば当然なのだ。
(他国にも名を轟かす名門校の生徒が負けるってのも違うし)
それが名門・帝国士官学院。特待クラスに所属する生徒たちが他の学び舎の同年代に負けることは、この学院の存在価値にも関係してくる。
「ま。俺の本命はアシュトンだけどな!」
「そういやそうだ。アシュトンが出たら代表確実だろ!」
中にはレンの強さを知る生徒の声も混じり――――というか、恐らく特待クラスの生徒だ。
レンとしても彼らが推してくれるのは嬉しく思うものの、獅子王大祭には最初から出場する気が無かったから、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
窓の外を眺めながらそうしていると、
「よっ、アシュトン」
人々の話を聞いていたレンの耳に、聞きなれた声が届く。
いまの声はレンの真横から聞こえてきたため、彼がその声がした方に目を向ける。
そこには制服の上着を羽織っていない、ラフな姿のカイト・レオナールがいた。
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