クロノアが何かを頼みたそうにしている。

 獅子聖庁にはじめて足を運ぶようになった日のことを、レンはいまでも鮮明に思い返せる。



 あの日、レンはエドガーと帝都で合流し、彼の案内で獅子聖庁に足を踏み入れた。

 七英雄の伝説で足を踏み入れることができなかった空間に足を踏み入れたことへの驚きや興味は、剛剣の凄まじさの前にあっさりと忘れてしまったことも記憶に残っている。



 エドガーが披露した剛剣を目の当たりにした頃から、レンの気持ちは変わっていない。むしろ、当時以上に腕を磨くことに対して強い気持ちを抱いていると言っても過言ではなかった。

 昨夏の騒動をきっかけに、レンの成長に対する欲求は強くなるばかりだった。



 ――――早朝、学院に行く前に獅子聖庁で剣を振っていたレンとリシア。



「はぁ……はぁ……っ……」



 疲れ切ったレンが大の字に倒れていると、彼の傍にリシアがやってきた。彼女はレンの傍でしゃがむと、水で冷やしたタオルをレンに手渡す。



「授業、ちゃんと受けられそう?」


「任せてください……ばっちりです……!」


「よかった。じゃあ今日の朝練は――――」


「……少し休んでから、もう一度で終わりま――――「じゃないでしょ。そのくらいにしておかないと、授業中に寝ちゃうかもよ?」「――――ですね」



 リシアの人差し指がレンの額に届く。

 指先から迸った小さな光の粒が、レンの全身に宿った疲れを少しずつ癒していく。



「わかってると思うけど、もう一度剣を振るためじゃないからね」


「――――どうして俺が言いたかったことを?」


「だって、レンが考えることだもの」



 仕方なさそうに笑ったリシアが立ち上がり、レンに手を貸す。

 その手を借りて立ち上がったレンは改めて呼吸を整えて、天井のガラスから差し込む朝日を見た。

 ここにきたときはまだ夜明け前だったのに、随分と時間が経っていたらしい。



「お二人とも、今日も気合が入っておりましたな」


「大時計台の騒動を思い返します。レン殿があの夜、『一切の敵をねじ伏せる、そんな獅子になる』と仰ったとき以上の気迫でしたぞ」


「やれやれ……本当に、大人の我らの方が先に参ってしまいます。お二人とも無尽蔵の体力だ」



 騎士たちにそんな言葉を投げかけられながら、レンとリシアの二人は地下にある訓練場を離れた。

 早く湯を浴びて学院に行く支度をしないと遅刻してしまう。

 湯を浴びに行く最中、リシアが口を開いた。その顔には可憐な笑みが浮かんでいる。

 


「レンったら。獅子王の血を受け継ぐお方の前で、獅子になるなんて言っちゃってたのね」


「……当時は色々と昂っていたんだと思います」



 だが、当時もレンの言葉を不遜と一蹴する者はいなかったし、いまだって皆無だ。

 この獅子聖庁において獅子の言葉は、この帝都の中でも稀有と言っていいほど強い意味を持つ。

 それにもかかわらず、レンの言葉は尊重されていた。



 偏にレンの成長速度と、彼の訓練に対する姿勢によるものだ。

 獅子聖庁の騎士たちは一般的に化け物、あるいは一握りのエリートと称されることが多いのだが、レンとリシアの二人はその騎士たちが自分の才能を疑うほどの才に満ち満ちて、レンは特に――――ということである。

 


 レンの照れくさそうな言葉にくすくすと微笑んでいたリシアが、



「やっぱり、剣聖への道は遠い?」



 いまのレンが目指す地位について触れた。

 剣豪の地位に立つレンが次に目指すは剣聖だ。リシアもそれは前々から理解しているし、彼女自身、先を進むレンの背を追う毎日を過ごしていた。



「ですね。剣豪になってからもうすぐ一年ですが、いままでで一番の壁を感じています」


「……どの流派でも、剣豪から剣聖が一番大変だものね」


「それもそうだとは思うんですが、流派が剛剣技なことも大きいですよね」



 猶、剣聖はその上に立つ存在が剣王しかいないため実力の差が大きい。

 剣聖上位と下位では、かなりの実力差があることをレンも知っている。



「レンがこのまま強くなりつづけたら、いつか剣王にもなれちゃうのかしら」


「剣王ってとんでもない化け物ですし、俺がその強さを得るのは割と現実的じゃない気がしますが――――」



 大時計台の騒動の際、最後に目の当たりにした強さを思い出す。

 ……前までのレンだったら、ここで絶対に無理! という態度を示してしまったかもしれない。

 けれど、いまは少し違った。



「もし、俺が剣を磨いた果てが剣王だったら……とは考えてしまいますけどね」



 このくらいなら、強がって言えるようになれていた。

 隣でそれを聞くリシアは一瞬きょとんとして、すぐに「私もよ」と口にした。



「そのためにも、一歩ずつですね」


「だからまずは……剣聖?」


「ということです。纏いの練度を高めて剣聖を目指す毎日ですが、とんでもなく高く強固な壁が立ちはだかってますから、リシア様も楽しみにしていてください」



 レンは脅すような言葉を冗談として口走って、リシアを笑わせた。



あの戦技、、、、が使えたら、戦いを優位に進められる場面が増えるはずだし)



 彼は剛剣技における剣聖の証を思い返し、息を吐く。

 湯を浴びてからリシアと合流した後は、身体に疲れを感じながらも帝国士官学院へ向かった。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 午前中の授業が終わってからのことだ。

 帝国士官学院にて、全校生徒が足を運ぶ集会があった。つまり新入生はもちろん、最高学年の四年次も足を運んでいる。



 会場となるのは入学式でも使われた大講堂で、各階層に設けられた入り口の周りには多くの生徒がいた。集会がはじまるまでの時間は、ここで歓談する者たちの声で賑わっていた。



「本当にレンのおかげで助かった……これで次の課題はどうにかなると思う」



 そう口にしたのはヴェインだ。七英雄の伝説では主人公として数多の活躍を果たした少年にして、勇者ルインの血を継ぐ唯一の存在とされていた。

 彼の隣を歩くレンが仕方なさそうに、



「ちゃんと復習しないとすぐに忘れるから、復習もするように」


「ああ、わかってる。……けどあの授業は難しすぎるって。どうしてあんなに複雑なんだ?」


「俺からはそういうものだから、としか言えないかなー」


「くっ……そうだ! レンはどうやって勉強したのか教えてほしいんだけど!」



 レンとヴェインは入学前から顔見知りということもあり、入学してからもこうして話をする機会が多々あった。

 関係性は親友というほどには深まっていなかったけれど、仲はそれなりにいい。

 さっきも昼休みを使って、ヴェインがわからないと言った授業についてレンが教えていた。ヴェインの手元にはその影響で、一冊のノートがあった。



「参考書を十周くらいすれば、大概のことは覚えられると思うよ」


「……冗談だろ?」


「いや、本気で。俺は器用ってわけじゃないから、単純に数をこなして覚えたことの方が多いよ」



 そうはいうもののレンは物覚えが良いため、例外な分野もあった。

 また、リシアと共にフィオナに教わった際もその限りではない。

 それでもレンは勉学に関しては数をこなして覚えることを好んだ。これで筆記試験でも相当な成績を残せたのだから、馬鹿にはできない。



「総代が言うんだから、きっとその通りなんだろうな」


「自分で言っておいてあれだけど、他に器用に学べるならその方がいいけどね」


「そうでもないって。俺だってもっと努力しないといけないだろうしな」



 二人は話をしながら大講堂へ足を踏み入れた。

 一年次の、それも自分たちが座る席を目指して階段を進む最中に、

 


『今日って何の集会だろー』


『上級生もいるんだから、あれに決まってるだろ』


『あれ? 何のことだよ』



 同じ一年次の生徒たちの声が聞こえてきた。

 何人かはこの集会の趣旨を察していたらしく、レンも密かに「確かにあれしかない」と呟いた。

 一方、ヴェインは何もわかっていないらしく首を捻っていた。

 すると、



「ヴェイン!」



 唐突に聞こえてきた女生徒の声に、レンとヴェインが顔を向けた。

 二人が見た先にいたのはセーラ・リオハルドだ。幼き頃にリシアと剣を交わして以来、彼女と友誼を深めている英爵家の令嬢である。

 彼女はどうやら、ヴェインと座る席で待っていたらしい。



「俺の席はあっちだから、またね」


 

 レンがそこでヴェインと別れる。



「ああ! さっきは勉強を教えてくれた助かった!」


「あれくらいいいよ。それじゃ」



 ヴェインと別れたレンが向かったのは、隣にリシアが座る席だ。

 更に前方へ二列進んだ先に、その席はあった。



 レンがリシアと取り留めのない話をしてから数分後、大講堂が静かになった。

 コン、コン、という足音を立てて壇上に向かった学院長クロノア・ハイランドの姿を見て、生徒たちは一斉に口を閉じたのだ。

 金糸を想起させる艶やかな髪を揺らして歩く姿が、注目を集めて止まない。



「今日は色々な話があって集まってもらったんだ」



 大講堂に集まった全生徒を前に、クロノアが精緻に整った美貌に笑みを浮かべて口にした。

 多くの男子生徒が、その姿に見惚れているようだった。

 


「まずは新入生の――――」



 最初に新入生たちの生活ぶりについて触れ、学院生活に慣れているかどうかといった話をした。

 次に二年次や三年次について、最後に最高学年の四年次についても。クロノアは学院生活の話をしてから、ちょっとした連絡事項などを含めいくつかの事柄を皆に告げた。



 ――――クロノアが壇上に立ってから、十数分が過ぎた頃。

 年次を問わず、生徒たちがそわそわしはじめた。



「ふふっ」



 それを壇上から悟ったクロノアが笑みを浮かべて眺める。

 穏やかで優しげな笑みだった。



「安心して。皆が楽しみにしてることもちゃーんと話すからね」



 でも軽く注意することも忘れずに、人差し指を立てて唇にそっと押し当てる。

 クロノアは次に話すべきことをいくつか口にすると、「それじゃ――――」と前置きをして、そわそわしていた生徒が欲していた話を語りだす。



「――――今年は二年に一度の獅子王大祭、、、、、があるから、そろそろ準備をはじめなくっちゃね!」



 わぁっ! と大きな声が各階層から響き渡った。

 これに関してはクロノアも注意することなく、にこにこと微笑みを浮かべながらつづきを語る。

 話を聞きながら、レンは声に出すことなく「やっぱり」と頷いた。



(確か七月の最初の週からだっけ)



 クロノアが口にした獅子王大祭というのは、この帝都で開かれる大規模な催し事だ。帝都に存在する学び舎の生徒たちが顔を揃え、多くの分野で競い合う大会である。



 たとえば魔法、たとえば剣、たとえば弁論など――――数多の分野で、各学び舎の代表生徒たちが鎬を削る。

 獅子王大祭は二年に一度の開催ということも相まって、国内外を問わず人が足を運ぶ一大イベントだった。




◇ ◇ ◇ ◇




 この日の夜、クラウゼル家の屋敷にユリシスから手紙が届いた。

 レンに宛てられた手紙だったため、受け取ったレンがすぐにその中身を確認した。

 手紙を読んだレンは自分の部屋を出てレザードの執務室に向かった。そこにはリシアもいたため、レンにとって都合が良かった。



「レン? どうしたのだ?」


「先ほどユリシス様から届いた手紙について、お二人にも話しておいた方がよさそうだと思いまして」



 レンは執務室にいた二人の傍に足を運び、手紙の内容を簡潔に告げる。

 手紙の内容は、『獅子王大祭の期間中、少し時間を貰いたい。ああでも、君が競技に参加するのならそちらを優先してくれて構わない』というものだった。



「理由は書かれていなかったのか?」


「はい。いずれ決まり次第ちゃんと伝えると書いてありましたが、それくらいです」


「なるほど……それで、レンはどう考えているのだ?」


「ユリシス様のお誘いを優先したいと思っています。そもそも、競技に参加したい気持ちがあったわけでもないですし」



 レンの実力なら、学生たちの大会での優勝は確実だろう。

 だが、不思議と参加する気にはなれなかった。更に言えば、大会で得られる栄誉より、かの剛腕との友誼を大切にしたいという思いが勝って当然だったのだ。



「じゃあ、私と一緒で競技は不参加ね」


「あれ? リシア様も参加しないんですか?」


「ええ。お父様が子爵になってから、色々な方に声を掛けていただいてるでしょ? 獅子王大祭期間中はお客さんがたくさんいらっしゃるから、私もそのご挨拶に付き合おうと思って」


「……私は気にしないでくれと言ったのだがな」


「ダメですよ。クラウゼル家の地盤を固めるための重要な時期なんですから、私も同席しなくちゃ」



 こうなってくると、レンとしてはユリシスの言葉がなくとも競技に参加することがなかっただろう。レザードとリシアの傍で護衛をすることの方が重要だ。

 


「ですがいいんですか? せっかくの獅子王大祭なんですから、リシア様も楽しんだ方が……」



 リシアは「ううん」と首を横に振ってしまう。彼女の表情からは、獅子王大祭で競技に参加することへの特別な思いは窺えなかった。



「お祭りを楽しみたい気持ちはあるけど、獅子王大祭は一週間もつづくでしょ? だからレンと一緒に、余裕があるときに見て回れたらそれでいいわ」


「わかりました。それなら是非ご一緒させてください」


「……でもレンの方こそいいの? せっかくだから磨いた剣を披露したいって思ってたりしない?」


「いやー……別に披露したくて磨いた剣でもありませんしね……」



 それに、レンが度々世話になっているユリシスがわざわざ手紙を寄越したのだ。

 ここでかの剛腕との友誼を優先しない方が、きっと間違った選択だろう。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 翌日の昼休みに。



「と、いうわけです!」



 学院長室に呼びつけられたレンの前で、ふふんっ、と胸を張りながら腕を組んで言ったのはクロノアである。

 一緒に来てもいいと言われ同行していたリシアが、レンと一緒に困った様子で苦笑していた。



「クロノアさん、というわけ――――って何のことです?」


「うん、ちゃーんと説明してあげる! だからレン君もリシアちゃんもほらほらっ! あっちでゆっくり話そっ!」



 二人はクロノアに促されるまま学院長室を歩き、ソファに座った。



「二人とも、この学院には慣れた?」



 レンがリシアに目配せを送り、彼女が先に答える。



「クロノア様をはじめ、教職員の方々のおかげで少しずつ慣れてきたところです」


「俺もです。授業も身になる時間ばかりで、充実した日々を送れています」



 二人の本心を聞き、クロノアは「よかった」と朗笑を浮かべた。



「それじゃ本題。早速だけど、二人に相談したいことがあるんだ」


「……おー」


「うわっ……そんな面倒くさそうな顔しないでよぉ……」


「すみません。世界最高の魔法使いの一人と称される方からの相談って聞くと、どんな難題だろうと身構えてしまいます」


「し、心配しないでっ! ボクは学院長だもん! 可愛い可愛い生徒に無理難題を押し付けるわけないじゃんっ!」


「ですよね。すみません。勝手な勘違いをしてしまって」



 クロノアがローブの内ポケットに手を入れて、一枚の紙を取り出した。

 それを「リシアちゃんもどうぞ」と言ったから、リシアも遠慮することなくレンと共にその紙に書かれた文字に目を通す。



「獅子王大祭のことですよね、これ」



 レンが言った。

 紙に書いてあるのは獅子王大祭の日程に加え、この学院の生徒がどの競技に参加して……といった細かな情報だ。



 とはいえ、まだ誰がどの競技に参加するか決まっていない。

 競技によっては参加できる人数に制限があるため、今後、時間をかけて帝国士官学院の代表を決める催し事が開かれるのだ。



「うちって一応名門だから、嬉しいことに生徒は基本的にどれかの競技に参加してくれるんだ。学び舎によっては参加しないでお祭りの部分だけ楽しむ人が多かったりするんだけど、おかげさまでボクは参加者に困ってなくて」


「だと思います。ただ、俺とリシア様は参加しないつもりでしたが」


「ほ、ほんとに!? 参加しないつもりだったの!?」



 普通、何らかの競技に参加すると言った方が喜ばれるはず。

 特に名門の学院長であれば、レンやリシアのような、世代どころか歴史に名を刻むような逸材には特に参加してほしいと思うだろう。

 それなのにクロノアは、テーブルに身を乗り出す勢いでぱぁっと明るい表情を浮かべていた。



「クロノア様は、私とレンが不参加でもいいのですか?」


「いいのいいの! うちは完全自由参加を許可してるし、無理強いしても楽しくないもんね! 二人にもお祭りは楽しんでほしいけど、ボクから参加しろー……なーんて偉そうなことは言わないから、心配しないでほしいな!」


「あ、ありがとうございます……でしたら、なぜ喜んでいらっしゃったのですか?」



 リシアにそう言われ、クロノアがため息を漏らす。

 先ほどと打って変わって、日ごろの苦労を感じさせる疲れた表情を浮かべていた。



「……それが、二人にしたかった相談に関係するからだよ」



 きょとんとした顔でつづきを待つ二人は、いつになく重い口調で話すクロノアから目をそらせなかった。


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