逃避行のはじまり。
馬車に鍵があることは音で知っていた。
レンはリシアを担ぎ上げ、鉄の魔剣を握り締める。
腕を振り上げると身体が重かった。
それでも、身体を動かせた時点で僥倖と言えた。
実のところ、四日も昏睡状態に陥っていたのなら、動けなくて当然とも思っていたからだ。
(確かポーションがどうとかって)
それは前世と違う概念で、ファンタジーの一端を担うアイテムだ。
ゲーム時代は体力回復に加え、状態異常を取り払うのに一役買っている。
これに加えて、身体能力UP(小)の影響もあろうが……。
(何にせよ助かった)
レンは音を立てずに鉄の魔剣を勢いよく横に薙ぐ。
つづけて縦一閃に馬車の鍵を両断した。
すると馬車の扉は割れ、レンはそれを音を立てぬよう抑えながら外す。
(……大丈夫だ。起きてない)
外に身を乗り出すと御者の席に座る魔獣使いの姿を見つけたが、幸い、魔獣使いは目を覚ますことなく腕を組んで眠っていた。
一安心して辺りを見渡すと、真っ暗闇に包まれた森の中に居た。
土地勘なんてない。
だが、逃げる決心をしていたレンが一歩踏みだした、
『ギィ……?』
そのときだった。
傍にそびえ立つ樹の上から聞こえてきた声。
その方向を見上げたレンは、太い枝をベッドにした二匹のマナイーターを見た。
マナイーターたちはギョロッと不気味に蠢く瞳を深紅に光らせ、こちらを睥睨していた。
「――――どうやって、逃れた?」
目を覚ました魔獣使いが馬車を下り、レンに近づきながら尋ねる。
マナイーターもまた身体を起こして翼を広げた。
「剣は私のそばに置いていたはずだが、何故、手元にある?」
「……俺の剣なんだから、どうだっていいだろ」
「ああ、確かに私の剣ではない。しかし、やめておけ。大人しくしていれば、お前は無事に親に会うこともできるんだぞ」
「けど、お嬢様はどうなるかわからない」
「美しい忠心だな。私には眩しいよ」
魔獣使いは嘲笑を交えて言い、
「これが最後の警告だ。自ら馬車に戻らないつもりなら、痛みに堪える旅路になると知れ」
冷酷な声音を以てレンを威圧する。
二匹のマナイーターはすでにレンの背後を浮遊している。魔獣使いが求める答えを口にしなかったとき、その二匹がレンに力を振るうはずだ。
ふと、隙を見計らうレンの耳にリシアの声が届く。
「……一人で……逃げ、て……」
いつの間に起きていたんだろう。
疑問に思うレンはリシアの気高さに微笑んだ。
「いいえ、逃げるなら一緒にです」
この言葉が合図となった。
面前の魔獣使いが指を鳴らしてマナイーターに命令を下した。
二匹は翼を羽ばたかせレンの背後に近づく。
『ギィッ!』という鳴き声が森に木霊した。
鉄の魔剣を握り締めたレンはすぅ――――っと大きく呼吸をして、前方に身体を押し出す。
「ふふっ! 若いな! 魔獣使いが相手なら剣で勝てると思ったか!」
「さぁ、どうだろうなッ!」
踏み込んだレンの背後にはマナイーターが迫ってくる。
身体強化を覚えたレンよりも疾く、まずはレンが担いだリシアを食い千切ろうと首を伸ばしていた。
背中から聞こえる辛そうな呼吸に、レンの心は猶も猛る。
そんな中、レンは唐突に身体の向きを変えた。
馬車の背後に回り、背後に迫りつつあったマナイーターたちを躱す。
勢いを殺さず鉄の魔剣を振り上げ、馬車を背後から叩き斬る。
……その先に、木材の隙間の奥に魔獣使いの顔が見えた。
目があったレンはその顔に向け、鉄の魔剣を勢いよく投擲した。
魔獣使いはそれを、身体をひねり躱そうと試みる。
鉄の魔剣は魔獣使いの首筋を僅かに掠め、魔獣使いが首元を飾っていた
「ふっ……武器を投げるとは愚か――――なッ!?」
鉄の魔剣は魔獣使いの真横を過ぎて間もなく、忽然と姿を消した。
代わりにレンの手に握られていた木の魔剣が大地を隆起させ、地表に伸びた木の根が魔獣使いの足元を拘束した。
レンはそれを見て、馬車の後ろから飛び跳ねる。
その際、ヴァイスから貰った短剣を見かけたので回収した。
ついでに魔獣使いの首元から飛んだ
ネックレスはチェーンが切れて、ペンダントが砕けていた。
仮にこれが魔道具なら、もうその体を成さないほどにの破損具合だ。
だからレンはそれを手にしたまま、次のことを考えた。
(あいつを倒すのは――――駄目だ! 欲張るんじゃない!)
もしかしたら倒せるかもしれない。
命を奪う、なんて簡単には言えないが、仮に魔獣使いの命を奪えたのなら、マナイーターも同時に消え去ることができる。
しかし、体力を消耗したいまは倒せる確証がなく、踏ん切りがつかない。
「やるじゃないか! だが、そこまでだッ!」
魔獣使いが白い木の杖を手にした。
杖の先で、極彩色の光球が蠢きだす。
「ッ……間に合え!」
杖で何をしようとしてるかわからないが、不穏だ。
レンは魔獣使いが杖を手にした刹那、自身も盗賊の魔剣を召喚して腕を振る。
「な、なぜ私の杖が!?」
驚く魔獣使いの手から杖が消え、代わりにその杖はレンの手にあった。……幸運なことに、魔獣使いの杖を奪うに至ったのだ。
しかし、安堵しては居られない。
一匹のマナイーターはレンの真横から迫っており、残る一匹は魔獣使いの前に居るのだ。
「ぜぁぁぁああああッ!」
レンは宙でマナイーターの攻撃を一度躱して、奪った杖を殴りつけた。
また、立てつづけに御者の席を強打する。
その衝撃で馬を固定していた箇所が砕け、杖もレンの膂力に負けて砕けた。
これに驚いた馬が慌てて駆け出したところで、レンは手を伸ばして強引に乗馬する。
「杖がなくば
魔獣使いの声を聞き、マナイーターがこれまでより強く両翼を羽ばたかせた。
このとき、乗馬の経験がないレンは四苦八苦しながら馬に乗っていた。
レンは盗賊の魔剣を消し、代わりに召喚した木の魔剣でツタを生み出し自分とリシアを縛っていた。
身体が絶対に離れないようにして、鬱蒼と生い茂る森の中を駆けていく。
「魔獣使いッ! 俺はお前の弱点を知ってるぞッ!」
「弱点だと……ッ!?」
「ああ、自分でも分かってるだろ!? だからお前は焦ってるんだッ!」
すると、魔獣使いは「くっ」と苛立った声を漏らした。
「森に住まう魔物たちよ! 私の声を聞けッ!」
遠くで響いた魔獣使いの声のあと、森のいたるところで魔物たちの呼吸音がした。
馬を走らせるレンの頭上を、そして真横を数多の魔物がすれ違う。
それらはリトルボアを思い出す獣であったり、まるで巨大な甲虫と思う魔物たちだった。
『ギギギッッ!』
『ギィイイイッ!』
マナイーターたちの甲高い声が耳を刺す。
しかし十秒、二十秒と過ぎていくにつれてマナイーターたちの勢いは劣りはじめ、数分が過ぎた頃には振り切れる直前まで距離が開いた。
森に巣食った魔物たちもまた、同じ様子だった。
「……もう、大丈夫か」
更に十数分も馬を走らせたところで、レンは安全なことを確信する。
(距離が弱点なのは変わらないんだな)
ついさっき、魔獣使いに告げた言葉の真意である。
魔獣使いはマナイーターを召喚すること以外にも、自分より弱い魔物に限って命令することができる。
だがいずれも、魔獣使い本人から離れると効力が薄まってしまう側面があった。
(問題はここからだ)
七英雄の伝説で得た知識を生かせたことは喜ばしい。
でも、これから見知らぬ森を脱して、更に人里を探すという大目標が待っているから油断はできない。
それでも一段落と思うと、身体にどっと疲れが押し寄せてきた。
「お嬢様、必ず薬を手に入れてみせますから」
いつもの声色でリシアに告げると、彼女は微かな声で「……ごめん、なさい」と口にした。
◇ ◇ ◇ ◇
ヴァイスが駆る名馬は一見すれば普通の葦毛にしか見えないが、その実、魔物の血が混じっていることもあり他の馬と比べて疾く、そして持続力に富んでいた。
彼はこの疾さを生かし、レンの村の周囲をくまなく捜索した。
だが、レンとリシアは見つからなかった。
そのため途中で合流した騎士に命じ、自分はクラウゼル男爵に報告すべく馬を走らせる。
彼がクラウゼル男爵の屋敷に帰還したのは、レンが魔獣使いから逃れた日から五日後の朝。
つまり、レンとリシアが連れ去られてから九日後の朝だった。
「――――死した護衛騎士に変わり、私がすべての罰を受けます。ですが、お嬢様を救うまでは猶予をいただきたく」
クラウゼル男爵家の屋敷に戻った彼は、アシュトン家が統治する村で何があったのか、それにリシアとレンの二人が連れ去られた事実を、クラウゼル男爵の執務室で報告した。
「何故だ。どうしてリシアのそばを離れた」
「……誤った判断故でございます」
「だからその誤りを教えよと言っているのだッ! どうしてだ! 騎士団長ともあろう者が、何故リシアのそばを離れたッ!」
クラウゼル男爵はヴァイスに詰め寄り、胸ぐらをつかんで声を荒げた。
しかしすぐに、ハッとした。
「私に隠していることはないか」
ヴァイスの目が泳いだ。
「リシアのことだ。病に伏せた自分のふがいなさを呪ったのだな? アシュトン家への恩義に報いるべく、異常発生した魔物の討伐をヴァイスに頼んだのだな?」
ヴァイスは何も言わず黙りこくったが、その沈黙は答えも同然だった。
「……すまなかった」
「いえ、私の誤りであることに変わりはありませぬ。最も力のある私が居るのならば、むしろ専属の者たちを狩りに行かせ、私が護衛として残るべきだったのです」
「それは誤りではない。正しき忠義だ。リシアが強く願ったことに応えたヴァイスのことを、どうして私が罰せられようか」
その悲痛な声音に対し、後悔に身を支配されていたヴァイスは何も言えなかった。
胸ぐらをつかんでいたクラウゼル男爵の手は離れ、彼はゆっくりと歩き出して窓辺に向かう。
窓の外は大雨に見舞われていて、二人の心境を表しているようだった。
「もう、じっとしているわけにはいくまい」
そんな中、クラウゼル男爵が強い口調で言い放つ。
「帝都に連絡を取る! 我が派閥の貴族はもちろん、皇帝陛下へも此度の顛末を知らせねばならないッ!」
執務室で報告を受けた彼は憤怒に駆られ、拳を小刻みに震わせた。
けれど、証拠がなかった。
クラウゼル男爵がギヴェン子爵の犯行を確信しているのは以前と変わらない。
が、それを裁くのに十分な証拠が欠けていた。
「虚偽の報告と取られぬよう細心の注意を払わねばならん。……リシアたちを捜索する増援を得られれば御の字、か。ところでヴァイス。別行動のアシュトン家の者たちはどうしている?」
「彼らには私以外の騎士をつけ、村民と共に安全な村まで避難させております」
「ならばいい。では、我らは疾く動くとしよう」
まずは帝都へ連絡を取りたい。
もちろん、それ以外にも近くの中立派の貴族にもそうだ。
どうするにせよ、増援が欲しかった。
「下手に動けば他の派閥に食われるぞ。慎重に動かねばな」
「はっ!」
これから忙しくなる。
気を引き締めたクラウゼル男爵がペンと取ろうとした、その刹那のことだった。
「ご、ご当主様ッ!」
いつもは冷静なはずの執事がノックもせず執務室にやってきた。
「帝都よりお客様が……ッ! ひ、広間へお急ぎください!」
クラウゼル男爵は鬼気迫る様子の執事に驚きながら、帝都からの客人と聞き驚いている場合ではないと思った。
誰が何の目的でここまで足を運んだのだろう。
疑問を抱きながら執務室を出て、分厚い深紅の絨毯の上を歩いて広間に向かった。
すると、そこに居た人物たちの服装を見て彼は驚く。
「クラウゼル男爵ですな」
「あ、ああ……そなたらは……」
彼らは文官だ。
灰色のローブを着た彼らは、法務局に所属する文官である。
「我々は法務大臣閣下の命により参りました」
そう言うと、一人の文官が前に出て懐に手を入れる。
取り出したるは丸められた羊皮紙で、彼はそれを広げてクラウゼル男爵に見せつけた。
「偉大なる帝国法に基づき、クラウゼル男爵には
「なっ――――どうして私がッ!」
「クラウゼル男爵には、著しい統治不良の疑いがあります。お分かりかと存じますが、皇帝陛下より領地を預かりし貴族にはいくつかの義務がございます」
淡々と語る文官に対しヴァイスは次のように呟く。
「ギヴェン子爵め、まさか帝都まで巻き込むとは」
憎しみを込めた呟きにつづき、今度はクラウゼル男爵が言う。
「重々承知しているとも! 我ら貴族は領地の民を守り、領地の富を守る義務がある! だが、私がそのどれを破ったと言うのだッ!」
「いくつかの村々が継続して被害を被ったことに加え、クラウゼル男爵が迅速な対処を怠り、隣接するギヴェン子爵領へも
クラウゼル男爵には反論の余地があった。
少なくとも、すべて彼の領地で起こりうる騒動の範疇を超えていたからだ。
しかし彼が口を開こうとすれば、法務局所属の文官は「審判の場で」と言葉を遮る。
「明後日の朝にはギヴェン子爵も到着なさると聞いていますので、その日のうちに、ここクラウゼルにて最初の弁論を行います。その翌日には判決が下されますが――――」
「判決に不満があれば、次は帝都での審判を。それでも不満なら帝都大神殿にて神前審判を、と言うのだろう」
「その通りでございます」
すべてが早すぎた。
レンの村が襲われてから帝都に連絡が行くのも、ギヴェン子爵が自身の領地を出てクラウゼルまで来るのも、すべてが早すぎた。
レンの村が襲われたことも含め、物事が圧倒的な速さで展開されていく。
間違いなく、前々から仕組まれていた流れだ。
クラウゼル男爵とヴァイスはそれを悟る。
「では、我らはこれにて失礼いたします」
法務局所属の文官は最後に頭を下げ、町の宿に泊まると言い残して広間を去った。
「審判にて私の非が認められれば、クラウゼル家は爵位を失うだろうな」
「しかしご当主様! 魔物による被害はどの領地でもあること! このくらいで領主の責任を追及されるなど、あってはならぬことにございます!」
「その通りだ。だから、ギヴェン子爵は自分の領内に被害が広まったと主張したのだろう」
わかり切っているがでっちあげだ。
そもそもクラウゼル男爵は可能な限り騎士を村々に派遣し、領民を守るために全力を尽くした。
すべてはギヴェン子爵、いや、英雄派の圧力か。また一段と、英雄派と皇族派の争いが苛烈さを増したのだろう。
クラウゼル男爵は目を伏せ、どう動くのが最良なのか熟考しはじめた。
「……二人が連れ去られた理由もわからんな」
ギヴェン子爵はレンに執心していたが、人質にするなら、リシア一人がいれば十分なはずなのだ。
たとえばクラウゼル家を脅し、派閥に引き入れるようとしても問題ないはず。
村を襲った凶行を思えば、いざとなった際にリシアを殺してしまう可能性も捨てきれない。
でも、レンに人質としての価値があるか、と聞かれると難しい。
彼は前途洋々な少年に違いはないのだが……。
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