第10話譲れないアイデンティティー
オレはビンジー芸能事務所に正式に所属。
芸能人が通う堀腰高等学園“芸能科”に転校することになった。
「ふう……明後日から本当に、あの堀腰高等学園に、オレが通うのか……」
豪徳寺社長から転校の提案を受けてから一週間が経つ。ここ数日は怒涛の毎日だった。
あの提案の翌日、社長はすぐにオレに家にやってきた。義母と義父に挨拶兼、転校の提案をするためだ。
「社長って、事務所だと組長みたいな感じだけど、親を説得するときは切れ者ビジネスマンみたいな感じだったな……」
転校の話は予想以上にスムーズに終わった。
我が家の親は基本的に、子どものやりたいことを優先してくれる。そのためオレがビンジー芸能に入ること、堀腰高等学園に転校することを、両親はあっさりと認めてくれたのだ。
むしろ反対するどことか『さすがはウチの自慢の息子だな、母さん!』『そうですね、お父さん!』と嬉しそうにしていた。
なんというか……ウチの両親は楽観的というか、天然というか不思議な感じだ。でもお蔭で芸能界入りと転校がスムーズに許可されてよかった。
その数日後、社長から『おい、ライタ。堀腰高等学園への転校の許可がでたぞ。来週の月曜日から芸能科へ通え』と電話連絡があった。
今日は週末の土曜日。
つまり明後日の月曜日から、オレの堀腰学園での高校生活がスタートするのだ。
「ふう……なんかバタバタすぎて実感はないけど、とりあえず今日も事務所に顔を出しておくか」
今日は学校の無い土曜日、またビンジー芸能に昼過ぎに来ていた。正式な契約書類や転入書類の受け渡しにきたのだ。
「うん、相変わらず寂しいビルな、ここは」
雑居ビルのエレベーターを乗って、ビンジー芸能のある階まで向かう。昼過ぎだというのに、人の出入りが少ない所だ。
誰にもすれ違うことなく、事務所へと入っていく。
「おはようございます、一之瀬専務」
事務所の一番手前の席にいたのは、三十代くらいの色気のある女性。ビンジー芸能の専務である一之瀬ミサエだ。
「あら、ライタ君、おはよう。今日はどうしたの?」
「今日はこの書類を提出にきました。あと、こっちの転校手続きの確認のお願いに」
「それはわざわざありがとうね。それじゃ……これを転校先の事務に提出しておいてちょうだい」
入所して分かったことだが、彼女は事務関係の仕事の責任者を担っていた。色んな書類を一手に管理しているのだ。
「あと、ライタ君、私のことは“一之瀬”とか“専務”じゃなくて、“ミサエ”って呼んでちょうだい」
「えっ……歳上の女性をいきなり名前で、ですか⁉」
「歳上ってどういうこと⁉ こう見えて私はまだまだ若いのよ! これはビンジー芸能のルールなのよ!」
ミサエさんは仕事のできる綺麗な女性だが、少しだけ年齢に関して過敏なことがある。うっかり“おばさん”なんて口にしたら、闇の世界に消されてしまう圧だ。
「わ、分かりました……ミサエ……さん」
ここは逆らわずに、言うとおりに対応しておいた方が、オレの命の危険は少ないだろう。女性を名前で呼ぶのは恥ずかしいけど、命令通りに呼ぶことにした。
それにしても芸能界は独特のルールとかがありそうだな。
もしかしたら他の事務所の人のことも、みんな下の名前で呼ばないといけないのかな、ここは?
「ん? そういえばミサエさん、ここって他に事務所スタッフっているんですか?」
人の気配がない事務所内を見回して、ふと気がつく。彼女の席に以外にも、個人用の仕事机は何個かある。
だが事務所内にはミサエさん以外には誰もいない。二週間前のオーデションの時は、何人かスタッフらしき人がいたはず。
では、これはどういうことなのだろうか?
「もちろん他にもスタッフは……特にマネージャーはけっこういるわ。でも彼らは基本的に外の仕事が多いから、日中は事務所にはいないのよ」
「あっ、なるほど、そういうことなんですね」
説明を聞いて納得。
マネージャーは基本的に、担当して芸能人の仕事場に付き添うことが多い。芸能人の仕事は各テレビ局やラジオ局、ライブハウス、地方の営業など外の仕事が多い。
そのため小規模なビンジー芸能には日中、あまりスタッフが事務所にはいないのだろう。
「あっ、そうだ。ライタ君のマネージャーもちゃんと用意しているから。来週にでも顔合わせをしましょう?」
「えっ⁉ オレみたいな新人にもマネージャーが付くんですか⁉」
「もちろんよ。ウチは弱小だけど、一応は全タレントにマネージャーを付けているわよ。あっ、でも。他のタレントとも兼任マネージャーだから、あまり過度に期待はしないでね?」
「はい、もちろんです! 付けてもらえるだけで嬉しいです! マネージャーさんか……」
前世でもアイドルオタクをしていたから、マネージャーの仕事はある程度は知識がある。
彼らは忙しい芸能人をサポートする係りであり、仕事のマネージメントもしていく大事な存在。
才能ある開花する芸能人には、必ず優れたマネージャーの存在が欠かせない、とまで言われているのだ。
(そうか……オレにもマネージャーが付いてくれのか……どんな人なのかな。緊張するな)
まだ見ぬマネージャー像にワクワクしながら、ドキドキしてきた。あまり人とのコミュニケーションは得意ではないが、顔合わせの時は精一杯の挨拶をしよう。
「あと、ライタ君。正式にウチの事務所に入ったんだから、さっそくアドバイスがあるわ。そろそろ、その髪型を変えない?」
「えっ? 髪型ですか? でも、どうして?」
いきなり髪型に関して提案されたので、思わず聞き返してしまう。
たしかに今の俺は流行りの髪型ではない。だが特に生活していくには問題はないからだ。
「ほら、ライタ君ってちゃんと見たら、“かなり端正な”顔立ちをしているじゃない? だから前髪をちゃんとしたら、今後は仕事も取りやすいと思うのよね」
「なるほど、そういうことですか」
人の顔の印象は、髪型によってかなり変化する。特に男性芸能人はヘアースタイル一つで、仕事の量が変わってくるのだろう。
まさに目から鱗が落ちる提案だ。
「向かいにウチが契約している美容室があるから、これからカットしてこない? もちろん経費だからタダよ。なんだったら案内してあげるわよ?」
「そうですか。でも、お断りします」
だがオレは迷うことなくアドバイスを断る。今のヘアースタイルのまま生活していくと答える。
「えっ⁉ どうして⁉ せっかくのイケメンなのに勿体ないわよ⁉ ちゃんとしたら学園でもモテるわよ⁉」
「そうですか。でもけっこうです。上手く説明できませんが、この髪型はオレ自身なんです!」
「へっ?」
たしかにミサエさんの指摘しているように、オレの髪型はイケてない部類に入るだろう。
毎日シャンプして清潔にはしているが、前髪で長めでオタクっぽいく顔が見えづらいのだ。
「この髪型は『オレがオレらしくあるための』のプライド……自分自身のアイデンティティーなんです!」
自分がアイドルオタクであることは、間違いない真実。アイドルオタクであることは誇るべきプライドであり、上辺のヘアースタイルで誤魔化すものではない。
たとえ生まれ変わって、芸能事務所に所属しようが……あの堀腰学園芸能科に通うことになっても、このポリシーだけは変える訳にはいかない。誰にも曲げられない自分自身の誇り。
オレは“芸能人 市井ライタ”である前に、“アイドルオタクである市井ライタ”なのだ!
「えーと? ご、ごめんなさい。ライタ君に、すごく熱意があることは分かるけど、何を言っているからは、ちょっと……とにかく、その髪型じゃ、芸能人とさすがに……」
「ガッハッハ……! いいじゃないか、ミサエちゃん」
そんな話をしている時、豪快な笑い声と共に大柄の男性が事務所に入ってくる。スポーツ新聞を片手にもった豪徳寺社長だ。
二人で何やら仕事の話をしていく。
「えっ、でも社長……」
「諦めな、ミサエちゃん。そのライタは変なところで頑固そうだから、そのままで売り出しておこうぜ?」
「でも、そんなことを言っても、ライタ君をプロデュースしていくためには、外見もある程度はしっかりしないと! これからの時代、たとえ俳優でも、まずはビジュアルから売っていかないと!」
「たしかに“普通の芸能人”は、そうだな。だがそいつは“普通じゃない”からな。ライタに関しては、頭を柔軟していこうぜ、ミサエちゃん?」
「も、もう……社長ったら。はぁ……分かりました」
何やら二人の話は決着がつく。ため息を尽きながらミサエさんが折れた感じだ。
「では、ライタ君、今回はあなたの主張を尊重します。でも、仕事が入った時は、髪型や服装は仕事に合わせてもらいますからね? これはアドバイスではなく命令です」
「はい、もちろんです! 善処していただきありがとうございます!」
なんと素晴らしい対応の事務所なのだろう。オレのアイデンティティーの主張を尊重してくれるなんて。
改めてビンジー芸能に入所してよかったと思う。
「それじゃ、失礼します!」
今日は事務所には書類の受け渡しにきただけ。正式な仕事の話やレッスンは、来週からスタートする予定だという。
挨拶をして事務所を立ち去ることにした。
今日は家に帰ってアイドル動画番組を視聴。その後は明後日からの通学に準備もしないと。
なにしろあの堀腰学園の芸能科に通うのだから、気合を入れていかにとな。
「あっ、そういえば、ライタ」
事務所から立ち去ろうとした時、社長が声をかけてきた。
なにか言い忘れがあったのだろうか?
「あそこの芸能科は、お前のような奴にとって“なかなか大変”な場所になるはず。心を折らずに頑張れよ」
「? アドバイス、ありがとうございます。それでは、また来週にきます!」
社長が言っていたことは、正直なところよく理解できない。
空返事をして事務所を後にして帰宅する
◇
そんな感じで、あっという間に週末は終わる。
「おお、あそこが堀腰学園の正門か⁉ 芸能科……どんな所なんだろう? ドキドキするけど、やっぱり楽しみだな!」
こうして日本中から芸能人の原石が集う“堀腰学園の芸能科”、通学初日がやってくるのであった。
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