『釣喩』




「釣れますか?」

 初夏の淡い空と、薄暗い海の水平線をただ眺めていると、釣り竿を担いだ老人が声を掛けてきた。

 酷く対照的に見えた空と海は、その老人の声で掻き乱され、混ざり合い溶け合う。

「いえ、数匹だけ」

 そう答えて、僕は立ち上がり、腰掛けていた水色のクーラーボックスを指す。

 老人は同じように横でクーラーボックスを置いて支度を整えると、僕のクーラーボックスの蓋を開けて、慎重に中を覗き込む。

「なるほど、鱚ですか。いいですねぇ」

 老人は深い皴の刻まれた頬を持ち上げて心底嬉しそうに言った。

 堤防に波があたり、砕ける断末魔が、音叉のようにただひたすらと連続した音楽を織りなす。

「鱚がお好きで?」僕は尋ねる。

「ええ、ええ。それはとても。鱚はたいへん良い魚でございます。塩焼も天ぷらもようございます」

 老人は妙なほどに腰が低かったが、その穏やかな表情を見ると、それはたいして気になるほどの要素にはならなかった。

「ここに来るのは初めてなんですか?」

「ええ」

 そう言って老人はリールから糸を出し、器用に竿に通していく。

 背負っていたバックパックから老人はプラスチック製のケースを取り出して——薬を入れるのに使うようなケースだった——その中にまるでアクセサリーのように丁寧に詰められた針や仕掛けを手に取り釣り糸の先に付けた。

 その迷いのない動作だけで、老人がかなり釣りを嗜んでいる人間だという事が分かった。

「いつもはどこで?」

「海浜公園の所で」

「ああ、成る程」

 老人は釣り竿の用意を整えると、大きく竿を振りかぶり、海に向かって投擲する。

 先に付いた赤色の疑似餌が放物線を描いて淡い青に吸い込まれていく。

「正直、海浜公園の方が釣れますよ。ここは潮の流れが悪いので、そんなに魚たちが寄ってこないんですよ。だからほら、人も僕とあなたしかいないでしょう」

 のない事だと分かって、僕は言った。

「ええ、ええ。存じております」

「僕はかれこれ三時間もここで待ってますけどね、釣れたのはちっこい鱚が三匹だけ。つつかれたり、かかっても逃げられたりするくらいなら、だいぶましなんですけどね。それすらもない」

 ため息をつく。

 塩を含んだべっとりとした潮風が僕と老人を包む。

 どこかでカモメが鳴く。

 それはどこか哀愁を漂わせていて、海の中でひたすらに佇む待ちぼうけのような雰囲気を醸し出していた。

「私は思うのですよ、お兄さん」

 風が弱まり、波が穏やかになり、カモメもどこかへ飛び去って、つかの間の静けさが入れ替わりで訪れたとき、唐突に老人は口を開いた。

 老人はさきほどから、竿を小刻みに縦に揺らしたり、横に走らせたりしているが、一向に獲物がかかった気配はない。

 その予感すらも存在しない。

「釣りというのは、夢を見ているようなものだと。私達は、その世界の一部分として存在していながら、同時にその世界を俯瞰する傍観者としても存在しているのです。私達は、私達の体感しているはずの世界に、自分の意思を反映させることなどできはしないのです。夢とはそういうものでしょう。ああきっとこれは悪い夢だとか、ああこれは素晴らしい夢だとか思っても、その世界では自分の体は自分の思うようには動かないし、周囲の景色は波打ち際の泡沫のように自分を取り残して目まぐるしく変化するのです。それを止める方法はただ一つ、目を覚ますだけなのでしょう。そしてそのことを、私は夢を失うと言います。釣りも同様に、釣れるか否かは私達には干渉できないことです。私達は釣りと言う動作を通してその世界に存在しているはずなのに、目的に至れるかどうかは私たちの意識の範疇の外で決定されています。それは酷くむごいことに感じるかもしれませんが、私はそうは思いません。釣りの楽しさ、趣と言うのはきっと、そういう矛盾した、背反した結びつきに由来するのだと思っています」

 老人は一息で言った。

 僕はなるほどと思った。

 老人の語ったことの三分の一も理解できなかったのに、老人の語った言葉の一つ一つが、僕にとって大切な石として心に埋められるような気がしていた。

「すこし感傷的に語りすぎましたかね」

 老人はかぶっていたキャップ帽のつばを撫でながら恥ずかしそうに言った。

 僕は老人に声を掛けようとしたが、喉の奥でその言葉は飲み込まれ、ついに口から出てくることは無かった。

「お兄さんは私とは異なりお若いのですから、きっとこれから様々な事を経験なさるでしょう。そうしていろいろな事に思いを馳せ、いろいろな事を感じ、いろいろな考えを持つようになると思いますよ。これもただ一つの、それこそお兄さんの長い人生の本の端にも記されないであろう老人のたわごとだと思っていただいて結構でございます」

 僕は老人のその言葉は間違いであると思った。

 夢と釣り、目を覚ますことと夢を失う事。

 そういった言葉の数々は、とても不思議な事だけれど、僕の胸に刻まれていて、きっと永遠にこの不思議な時間の事を忘れることはないだろうという、確信に限りなく近い予感がしていた。僕は深くうなずき、もういちど、はじめと同じように、空と海の境界線、その薄黒くただひたすらに伸びる道のような筋を目で追ってみた。

 そこに夢のたどり着く先があるような気がした。

 その手には届かないところにある、不確かな存在こそ、まさに夢なのだというような気がしていた。

「おや、釣れているのではありませんか?」

 老人が驚いたような声で言う。

 見ると、海に垂らした竿の先がわずかにぴくぴくと揺れていた。

 僕は驚いて竿を引きハンドルを回す。

 とても驚いたけれど、それでいて僕の顔には自然と笑みが浮かんでいた。

 横を見ると、老人にも当たりが来たようで、同じように笑顔で竿を引いていた。

 僕達はお互いに顔を見合わせて、笑いあった。






                          

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