イエロー・サブマリン

雫石

『イエロー・サブマリン』

 



 父は私を、森の奥にあるログハウスに連れて行く。

 渓谷沿いの国道を車で駆け抜け、山々の間を縫って進みながら、ここが東京とは違うという事をまざまざと見せつけられていた。

 僕は、たっぷりとした緑に辟易する。

「そこは、もともと俺の親父が作った家だった。親父が死んで、兄貴も死んだから、今は俺の家なんだが、相続したついでに確認しに行った時以来、そこに行ったことは無い」

 渓谷沿いで、父が言った。

 その声は、ビートルズの『イエロー・サブマリン』のメロディーと共に、開け放たれた窓から谷底へと落ちていく。

 国道の左側には、永遠に山が立ちはだかっている。

 そして、その険しい斜面のほとんどは、歪んで波打つコンクリートで固められている。

 僕が、それを真剣に見ているのに気が付いたのか、「土砂崩れの痕だ」と父が言った。

 ということは、ここら一帯、少なくとも一回は崩れたのか。と、他人事のように思う。

 僕達は道を進む。

 コンクリートの壁の上の針葉樹が次から次へと過ぎ去っていく。

 どこからか鳥の鳴き声。

 「いえろーさぶまりん。いえろーさぶまりん」

 父が口ずさむ。

 僕も、同じように口ずさむ。

 





 父は、道の駅に車を停めた。そこは、こんな田舎には似つかわしくないほどに駐車場の広い道の駅で、停めてある車もまばらだった。

 まさにがらんどうといった感じだった。

「トイレに行ってくるから。ここで待っててもいいし、そこらへん見ててもいいぞ」と言って、トイレに小走りで駆けていく父を見送ったあと、辺りを見回す。

 国道を挟んで反対側に、渓谷に突き出した開けた場所があって、展望デッキのような形になっていた。

 一先ず、そこに行ってみようと思った。

 僕は片側一車線の国道を横切り——右を見て、左を見る必要のないほど、車の通りは少なかったのだ——太い丸太で組まれた柵から頭を乗り出してみる。

 眼下に広がる、谷、そしてその底にある川。

 遠くにかかる橋。

 それらがこの場所からは一望することが出来た。

 こんな良い場所に家を作ったのだったら、いっそこっちに引っ越してしまえば良いのに、とさえ思ってしまうほどだった。

 上流にはそれなりのダムがあるそうで、そのせいで年間数人の人間が流されて死ぬのだと父が言っていた。

 たしかに、この場所にはたとえダムがあると知っていても人を惹きつける魅力があるのだと、僕は納得した。

 頭の中で、独特な音色のトランペットが鳴る。

 「いえろーさぶまりん。いえろーさぶまりん」と言う呟きは、その言葉通り、渓谷の底に潜っていく。






「その家は何かといわく付きなんだ。兄貴は幽霊を見たって言っていた。なんでも、あの渓谷の上流にある鉱山から毒が流れた時に死んだ農民の亡霊らしい。もちろん、俺はそんなことは信じないが、今思えば親父も兄貴もひどくそれに怯えてたなあ」

 父は、たばこをくわえているせいか、所々くぐもっている声でそう言った。

 僕は窓の外を見ながら、いろいろな事に思いを馳せる。

 緑の森に思いを馳せる。

 コンクリートむき出しの山の斜面に思いを馳せる。

 渓谷に思いを馳せ、渓谷の底の川に沈む黄色い潜水艦について考える。

 その潜水艦は鉱山から流れた毒で死んだ農民が一人で乗っていて、愚かな僕達父子を襲うタイミングをか細い潜望鏡越しに虎視眈々と狙っているのだ。

 しばらくすると車は国道からそれ、細い道に入る。

 細い道は、進むにつれてさらに細くなり、しだいに荒くなっていく。

 だんだんと、ログハウスに近づいてきていることが、僕には分かる。

 ビートルズのメドレーは既に終わっていて、今は名も知らぬボサノヴァがかかっていた。

 そのボサノヴァに乗せて、僕は口ずさむ。

「いえろーさぶまりん。いえろーさぶまりん」

    





                                 

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