嘘である必要などない

人生で初めて人に会うことを正当化することができる。

人生で初めて私の意志として人と会いたいと思う。


別に好きな人がいるからという精彩な理由ではない。

それはただ独善的と思われてしまうかもしれないが人の中でこそ、私が自由でいられるということを言葉にできる形で「知った」からだ。

私は個人主義者であった。

個人主義といっても色々あるだろう。自分の富を測りにする者。自分の快楽を測りにする者。こうしたもの、特に前者は批判される。しかし私の個人主義は一味違う。ただこの瞬間だけを受け入れるといった実在的個人主義だ。私のそれはそこまで高尚なものではないがイメージしやすいもので言うと仏教の悟りに近いだろう。ただ今見ている世界を味わう。電球の微かな音。指がキーボードに触れる感覚。息を吸い肺が膨らむ感覚。夜に浮かぶ月。冬の冷えた空気。視界を覆う新緑。そうしたものだ。


わたしにとってそれは十分なはずだった。それで満足したはずだった。しかしそれでは何を望む?今に全てを満足しているなら何もする必要などない。誰かと話す意味もない。仕事をする意味もない。

誰にも話さず一歩も外に出なかったとしてもそれは満足なはずだ。

しかしそんな夜を幾度も経験した私はそれで充分とは言えなかった。

水も食事も睡眠も足りていても何かが足りない。何を食べてもどれだけ寝てもなにをしてもお腹ではない何かが空いてならない。

いつも喉の奥が塞がれたようなあるいは穴が空いているような感覚に襲われる。


そうか、これが孤独なのか。


私は自由を求めて一人になったのにその自由になったら何をする意味もないのだ。


コンスタン(18世紀の小説家、思想家)は妻と別れたときにこう書いた。「一年以上前から、私はこの瞬間を望んでいました。私は完全な独立を熱望していました。その独立がついに訪れて、私はぞくぞくしているのです。」と。しかし20年後「私は一人だけで生きることをあれほどまでに望んだ。それなのに今は、そのことにおののいている」

(ツヴェタン・トドロフ 2002 未完の菜園 法政大学出版局 162pより引用、抜粋)


だからといって他人と関わるから自由を捨てる必要などない。

私は「彼」にとって都合の良い存在ではなくてはいけないわけではない。

「彼」の中で私は自由であり続ける。


私は今も「未完の菜園」という本の全てを知らない。

ただ今はそれでもいいのだろう。

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