社交という仕事
私にとって人といるのに孤独を感じるときほど自分が恥ずかしく惨めになることはない。
モンテーニュはこう宣言する。偽りの言葉よりも沈黙のほうが社交的だ。したがって最も低い次元にあるのが、偽りの言葉、うわべだけの社交辞令である。(ツヴェタン・トドロフ 2002 未完の菜園 法政大学出版局 170p)
私はどうにも社交辞令的な会話ほど意味のなくつまらないものはないと思う。それはたとえユーモアであってもそう。たまに聞くノリとかテンションとかそういうもので会話しようとすることはその最たるものである。それは頭に浮かんだ形式化された笑いに繋がる定型文を当てはめただけのものに過ぎないことが多い。社会的な場、特に3人から5人、更に8人とかの場ではそうしたもので自分たちが同じ立場であると表明する。それにより自分たちの核心である存在意義、何を考えているか何を感じているかを曖昧のままにする。それに加えその空気はお互いを理解し合っている体で物事をすすめるから気持ちが悪い。このときほど人間が自由でないときはないだろう。何かを話すときには暗黙に面白い答え、テンションの上がる答えを期待される。それに最も適する答えとして選ぶのは過去に笑いをおこしたことのデータベースからそれを選びだす。そうして周りはそれが期待どうりであれば返答や笑いで応え、期待でなければ無言でそれに応える。これ程虚しい経験はそうないだろう。もしそれに失敗すると周りが一瞬にして敵になったように見えるし成功したとしてもそれは自分で行なったことではない、周りが見ているのは都合のいい誰かであるという不信を帯びる。
だが、モンテーニュはこれと同時にこうも言っている。
しかし〈偽りの〉という形容詞の使用そのものが、すべての言葉が偽りだとはかぎらないということを意味している。本当の言葉もまた存在するのであって、そちらのほうは沈黙に優る。...「いかなる喜びもそれを伝達する相手がいなければ私にとっては味わいがない」(ツヴェタン・トドロフ 2002 未完の菜園 法政大学出版局 170p)
本当の言葉とはどのような言葉であるだろうか?それを私は全く知らない人わけではない。
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