差し伸べられるナイフ
今読んでいる本「愛するということ」は私にない愛するというものがどういうものかということを教えてくれた。これは私を大きく社会に適合させた。話す人それぞれの価値観は本のように味わい深いドラマチックな世界であると本気で思ったしそれが見知らぬ人であってもそれを尊敬しようという紳士的な態度にさせた。私が考えることを必死にわかりやすくどう感じたかを説明し、それが受け入れられたときは人の持つ寛大さに感謝した。けれどそれが進むにつれて得体の知れない不安があった。こんなにも世界が上手く回っているのにも関わらずそれは段々と大きくなった。自分のことを話すことは気分を良くさせる。おばあちゃんには生活のことで大いに感謝しているのだがそれにしたってどうでもいい話に聞こえてしまう。自分のことは自慢げに品の良いように話す癖に私の話はサラッと流される。それにそうして自分でする話も常に自分はそれを批評する立場であり最も勢いのある意見にただ賛同するだけ。好ましいことがあれば褒め批判がある話は愛想よく貶す。私にはそうした態度が気に食わない。おばあちゃんにとっていいことは誰の反感も買わず力の強い側に常についていることだ。だから話すことはいつも決まりきった答えを期待するものになる。どうにもそれがつまらなくてならない。私は愛に飽きた。
そもそも私が愛を信仰したのはどうしても避けられない最低限の社会的な生活を保つために過ぎなかった。初めて会う人には気を使って話題を提供しなければならないし、家に誰か来たらその人の近況を聞かなければならない。私は愛さねばならない。そこに意志や自由などなかった。ただ抗えないから肯定的に愛を迎え入れただけ、今まで道理社会で求められることに応じただけ。それを納得させるための愛するという手段であり信仰だった。フロムのいう理論には納得させられたし私の経験と今の説明する内容であった。それも事務的な説明ではなく精神的な説明である。しかし以前として「なぜ愛するか」という疑問には答えなかった。
コミュニケーションの紀元を辿る。すると一人で小さな獲物を取ることから集団で石を投げて大きな獲物をとることをするようになったときに必要とされたかららしい。サドは言った。「人々に愛されなければならないというのは、きまって自分のためでしかない。人々を愛するというのは、欺瞞でしかない」
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