夢想という罪
今日は一日何も予定がない。朝5時ごろに起きて学校へ行き、人の少ない時間帯に実験をしようかと思っていたが昨日の夜は犬の散歩に妹と行ったので寝るのが遅くなってしまった。まあその後にアニメを見ながら歯磨きをゆっくりと済ませたものであったしその散歩自体も私にとっても妹にとっても満ち足りたものであったので特に悔いたりはしていない。毎日の歯磨きをしながらアニメを見るのも至福の時であり必要なものであったのだろう。
しかしまあ憂鬱なのがこの何も予定がない日というのをどう過ごすかということだ。ここ二日間、誰に決められるのでもなく朝5時ごろに起き、6時に出発し8時に実験を始めて10時に終わらるということをしてきた。その後の時間は一昨日ならば内定先の交流会のインタビューの準備昨日ならばこうして考えていることを書き連ねることで時間を過ごした。昨日は学校の中庭で書いたのだがそこは格別で満ち足りた場所であった。秋の澄んだ空気の中全身に注がれる太陽。そしてそれを彩る葉の落ちた寂しげな温かみのある木とその周りに伸びる黄土色の道。こうした情景は小説の幻想的で現実的な世界に入ったようだと今になって思う。ようは今日のようにこの家から出ずにただ夕飯と風呂の時間まで時間を潰すというのは暇なのだ。
もちろんそれなりに私に時間を費やさせる娯楽はある。オンラインゲームに終わりはないし読んでいない漫画やアニメもある。まあしかしこれはこれは余り聞かない考え方ではあるかもしれないがそうした「物を消費する」ということで自分の欲を満たすというのはどこか虚しさを覚えざる負えない。これは読んでいるエーリッヒ・フロムの本に、エーリッヒ・フロム自体の考えに影響されたものだろう。でもまあ考えても見てほしい。運ばれてくる料理を寝ながら口に運ばれるのを待っている。しかもその料理は自分で影響を与えることはできずただの既製品としてのものだ。それをただ消費するだけの人生など家畜のようではないか。周りに悪く見られないように必死に仕事をしてその反動として休日には消費によって脳をとばす。それはなによりも不気味な後味のホラー映画ではないか。こんな見方をしている私ではあるがゲームやアニメは大好きだ。オンラインゲームは自分がだんだんと上手くなっていき他のプレイヤーを倒せるようになると没頭してしまう。また一人向けゲームもまるで映画の主人公になったような壮大な世界や哀愁漂う小説に入ったような気分を味わせてくれる。きっと製作者もゲームに依存させようなどといったゲスな考えをしているのは本当に僅かであると思う。アニメもただ困難に打ち勝って爽快感を与えるだけではなく、まるで現実のような悪でもあり正義でもある世界感を再現しているとその奥深さに心を打たれる。アニメやゲームも映画や小説などと大差がない感嘆を持っている。
ただそれらは特に空想であるから、創作であるから面白いわけではない。これらに変わらないのはその世界も実際にいる人が作った世界であり、その人は現実に存在するということだ。それにゲームやアニメ、映画やドラマ、小説といった娯楽について人が感じる感情に目を向けるとその多様さがわかる。オンラインゲームでは優越による陶酔感を味わえるし逆にそれで負けると直に殴りに行ってしまいたいぐらい悔しい。ストーリーのあるゲームでは登場人物と一緒に現実のような壁に打ちのめされることもあり、それを他のキャラクターに気遣ってもらえると心底安心してしまう。アニメでも決してすべてが上手くいく世界ではなく四苦八苦しながらもそれを切り抜けていく主人公もいればそれに身を落としていくキャラクターもいる。よくもまあこんなに面白いことがバンバンと出てくるなという漫画もある。映画では全く予測できないどんでん返しもあるしだんだんと狂気に染まっていくキャラクターも描く。小説はこうした流行りにもならないような多くの人が口にしない自分だけしかわからないと思っていた考えまで手広く支えてくれる。これ以上安心するものはない。こうしてみると楽しい、ユーモアのある、陶酔感、安心感といったポジティブな内容もあれば孤独、反抗、妬み、悲しみといったネガティブな内容もある。人はポジティブな感情はもちろんのことネガティブなことにも自ら浸ろうとする欲求がある。これはポジティブなことで気分を高める反面、ネガティブなことで悪いことが起きた自分にも同じような境遇の人がいるという安心感を求めているのだろう。このことは人と話をするときにも役立つ。失敗して落ち込んでいるときに誰かといるから無理やり面白いことを言わなければならないとかいうのはとっても辛いことだ。なぜならその時自分が感じていることを受け入れてもらえないというのは周りと自分が違うことを感じざる負えないからだ。しかし実際多くの人は喜劇と同じぐらい悲劇が好きなものだ。特に私は悲劇が大好きだ。まるでそこに自分がいるかのような安心を覚える。だからその人がそれを連想できるように言葉を選びながらも考えていることを話すと思ったよりそれに相手が乗ってきてくれる。
だが問題はゲームだの漫画などに傾倒することでこんなにも早く一日が終わってしまうということなのだ。これを書く間にも2,3時間もゲームに費やしてしまった。恐らく私がこれを書き始めた際に危惧していたのはこうしてそれだけで一日が終わってしまったときにくる虚無感なのだろう。これは誰かと一緒にゲームをしたときに大分緩和されはする。しかしそうもせずにこうして一日モニターと目を合わせ続けるとき、特にオンラインゲームで必死こしてやったのにチームのメンバーが弱く負けてしまったとき、己の孤独さに気を落とさざる負えない。もし私が物語の主人公なのだとしたらその小説は一ページにも満たずに終わってしまうだろう。恐らくというかほぼ核心であるがフロムの危惧した一日を私が今日実証してしまった。これこそが大量製造、大量消費の怖いところである。私は物語の主人公になりたいのに私という物語はつくられない。今日という一日は田舎の澄み渡る山や心を洗うような川、または直接会って議論を交わしあう友、そういった小説のような一日を過ごせなかった自分が可哀そうになってくる。一人でオンラインゲームをして一喜一憂して終わりには負けて自信を失っているこの日にはだれもそのままの私を気にしてはくれないし上手くいったといしても褒めてはくれない。フロムのいう無条件の愛と条件付きの愛という観点からみるととても非効率的だとわかっていたのだ。
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