人生賛歌 (2)
重さ1キロの重りを持ったあとに重さ2キロの重りを持った時の感じる重さは重さ2キロの重りを持った後に4キロの重りを持った時と等しい。これは幸福感にも繋がることであり幸福度1を感じた後に幸福度2を感じた時の感動は大きいがそれを感じた後に幸福度3を感じた時は1から2になった時よりも物足りなさを感じる。1から2になったときの幸福感をもう一度味わうには幸福度4を与えなくてはいけなくなる。しかしそうすると幸福度6では物足りなくなり幸福度8を与えなくてはならなくなる。これはヘロインなど薬物の依存の原因である。しかしこれは薬物という遠い世界だけの話ではないのである。私たちが普段なにげなく感じる経験もその法則に乗っ取ってしまう。それがゲームであれアニメであれ音楽であれあるいは人の話を聞くことであれ、それは変わらないだろう。それを知ると多くの人が言うように楽しければいいとか好きだからやるとかそういうこともちんけに感じてしまう。
他者から見た社会的成功に意味を見出すのでもなく自分の内的な幸せにも納得することができなかった私は途方に暮れた。嗚呼、もうこの社会に、この世界に、この私に意味などあろうものかと。だがそうした腐った搾りかすの私も死することができない以上、形だけでも社会に適応しなければいけなかった。死は実際に行ったものと比べたら半端なものではあるが幾度か試した。首に縄の痣が残ることもあったが思い切りの悪さが災いして死ぬことはできなかった。だから私は社会的に安全が担保された上で考える時間が必要だった。私は大学生で幸い、押しつけがましいゼミは避けたので週に一度しかゼミはなかった。内定もできるだけ自分が反抗する気を起こさないようなところを選んだ。しかしそうは言っても最低限社会に適応することがある。ゼミでは先生と話さなければならぬし学会発表を控えていた、しかも内定先では内定者交流会というものがある。家にはおばあちゃんと毎日顔を合わせるし妹はよく毎日のように内に遊びにくる。ようは誰かと顔を合わせなければいけなかったし誰かと話さねばならなかった。その最低限をこなすための私なりの理論が必要だった。話すときに気まずい空気というのはどうにもまずいことは感じていた。なのでユーモアの仕組みについて本を読んだりお笑いをみたりして場を和ませることを覚えようとした。それはそこそこ上手くいったつもりであったがそれでもこの場を盛り上げなければいけないというのはとんでもないプレッシャーで人との会話を避けた。しかし先の理由により全ては避けられず平凡な恐ろしい日々が続いた。
そんなとき「ALTER EGO」というスマホゲームをやった。このゲームのシステム自体はよくあるタップしてレベルを上げて進めるものであるのだが、なかなかテーマが面白い。このゲームはタップすることで「小説を読む」ということになっておりそうやって「小説を読む」中で自分探しをしていくというものだ。小説をある程度読むと自分探しのヒントとなる診断をしてくれる。この診断自体もある程度精神分析に近いものがあってそれを見ることで自分を理解してくれるという安心を感じることができた。またこのタップすることで「小説をよむ」ことをある程度までこなすと実際にその小説の一部を読むことができるのだがその中でヘルマン・ヘッセの「デミアン」の一部が目についた。「新しい苦悩!新しい隷属!」それは膿みきっていた日々の中のほのかな可能性だった。それはもう量子力学でいう存在と非存在どちらの状態も含んだ状態の一瞬のものぐらいの揺らぎだった。それまで興味のあるものだけはwikipediaを読んだり本を読んだりしてた私はそれを読むことにした。そこに書いてあったのは「明るい世界」の否定であった。主人公は悪友に対する見栄から盗人をしたとうそをつくのだがこんどはそれを言いつけてやると隣の学校の子に脅され金やらなにやらを巻き上げられていた。自分で言ってしまった手前、引くに引けなくなった絶望した主人公を救ったのは「明るい世界」ではなくかといって「暗い世界」でもないものであった。その異質な雰囲気をまとったデミアンに救われた主人公が脅しも貢物もしなくていい安心の世界、「明るい世界」に戻ってきたときに思ったのが「新しい苦悩!新しい隷属!」という言葉だった。それは社会的な成功もしくは個人の幸せというものに疑念を感じていた私そのものであった。もうこの世界に私と相いれる人はいないと思っていた私にとってこれほど心強いものはなかった。世界の全てと分かり合えないと思っていた私にもほんの少しでも分かり合える人はいた。
こうして分かりあえる世界ができてほのかにもこのような私の反抗的で抽象的な志をもった同志を探したいと思っていた。私というものがたとえ100人に口に出して「なにいってんの」と口には出さないながらも思われようとも次の一人でわかってもらえたらいいなという健気な思いで弱弱しく私の考えを口に出し始めてしばらくして思った。たとえ理解がないとしてもせめてできる限りの相手が思いつくであろう言葉を使って私をわかってもらう努力をすることはできる。そうしていると確かに思ったより私の考えていることが世間では受け入れられないと思っていた弱気で反抗的な思いを理解する人もいたしそういう経験をしている人もいたのだ。今回の交流会のインタビューで会った人はなんと哲学科出身であり、愛だの感情だのといった抽象的な考えにも理解がある人だった。私の行っている研究も理系のお堅いイメージを変えるきっかけになったとこれ以上ない褒め言葉で言ってくれた。それにその人のおすすめの現代哲学の本「未完の菜園」といものを紹介してくれたのだ。それは人間主義というものを基にしている。この人間主義が何なのかというとよく哲学では神とか世界とか人から見た外の抽象的なものを対象とするのだがこの主義では純粋に人の内側である感情とかを扱うとのことだ。これを聞いてやはり現代哲学というものはこれまでの全ての哲学を学んだうえでのより人の意識に迫っていると感じたものだ。なんにせよこうした外にもいる自分というものがあるという経験はフロムの「愛するということ」自体の目的であり意味であった。私が世界にいて世界に私がいるという私と世界の合一それこそが人そのものであり皆が意識していないでも目指していることであると思う。その合一というものも前回も書いたが2種類ある。一つが父性的であるといっていた何かを達成できたら愛するというもの。もう一つが母性的といっていたどんな罪を犯そうともそれを愛するという無条件の愛だ。恐らく現代社会であり私の家も前者の条件付きの愛ばかり重視するあまり個人の精神的な病気の流行、そして諸処の社会問題が引き起こされているのだろう。どれだけ問題が大きかろうが小さかろうがそれを問題とするのは人の感性であり、もっというとよく精神病の根幹にあるとされる愛着であると思う。そもそもなぜ精神病の根幹が愛着であるかというのは人の欲求のそもそもが愛着によって引き起こされているものだと推測する。会社で仕事をするのは主に父性的な愛着、音楽を聴いて自分と同じ考えや感性を探すのは母親的な愛着というように分析できる。
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