人生賛歌 (1)
今日は素晴らしい日だった。
私にとってこれ以上ない人に会えた。
何があったかというとこないだの内定先の交流会についての主催企業のインタビューがあった。内定先はグループ会社に交流会などの催し物を主催して内定者同士の交流や内定先への不安の軽減に一役買っている。前回その第一回があったのだがそれについての感想や就活での経験をインタビューされた。インタビューといってもこれはまあ全員に行うもので特に選ばれたわけではなかった。前回はテーマが自分史というこれまでの人生について年表のようにしてみるといったものであった。そのとき私の話は他の人とは違うものであるということを認めつつもそれをそれとなく迎え入れてくれる温かみを感じたものだ。またほかの人の話も結構、人生というテーマだということもあり苦労しているのだなと安心した気持ちになった。そんなことがあったから心持はいくらか楽ではあったがそれでも誰かと話す、ましてはほぼ初対面の人と話すのは心にもやをかけざる負えなかった。
しかしいざその人と対面してみるといくらか安心することができた。その人は前回自分についての認識はされていなかったが司会をやっていたこともあってなんとなくとげがないような人柄であると感じていたのだ。その人は最近風のメイクとかはしているが割と愛嬌のある柔らかい雰囲気で話しやすい若い女の人だった。私は恋愛とかそういうものに疎く、自己に抱える問題のおかげで若い女の人というのに苦手意識があった。以前になんどかデートらしきものはしたことあるのだが男が盛り上げるだの楽しませるのだのリードするだのを考えるとそのプレッシャーで気疲れするので好まなかったからだ。そんな苦手意識はありつつもそのときの私にはそれよりも大きな信念であり、哲学であり、精神分析でもある考えを秘めていた。それは人を愛するということだ。
最近読んでいたフロムの「愛するということ」というのは私にとってこれ以上ないこれまでの人生を説明する聖書であった。それは今までにどうやって行動してきたか、それはどんな理由で行ってきたかというものを示すものである。それが十分説明性を確保した上で目指すべき目的はこれまでと変わらない、しかしそれをより完成された目的にするために何が答えであるのかということを社会に対し批判もしながらも論じているというもはや私が今日読むことを予言していたかのような本だ。この本で人は愛されようとおしゃれしてみたりできる人を演じてみたり面白い話をしようとする努力、つまり愛されるための努力はするのに自分が愛することの努力はしてないというのだ。これは正に私の求めていた考えであった。
世間一般ではどれだけ成功するか、どれだけ会話が上手くなるかという本はあれど誰もなぜ成功する意味があるのか会話が上手くなる意味を論じてこなかった。私にしてみたらそもそもなぜ成功を目指さなければいけないのか、誰かと恋仲にならなければいけないのか、仕事をしなければいけないのか、生きなければいけないのかが納得できなかった。世間一般ではそれらを目指すことを前提に話が常に進む。成功するには思いやりを持つべき、成功するには計画することで効率をよくすべき、モテるためには話が面白い人になるべき、話が面白くなるには様々な視点にたって考えるべきなどはその典型でありここまで必死だともはや目的がむなしく思えてくる。実をいうとそれは心理学や哲学を扱う本でもそう感じることはある。幸せになるには利他的になるべき、苦しまないためには自分を受け入れられることをそもそも期待するべきじゃないとかだ。そういう「幸福」とか「苦しみ」の回避などを主軸に、それだけを根拠に生活したこともあったがそれもまた空しいものだ。人の感じる感覚というものはそもそも相対的なものである。
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