皮膚を剥がすコンクリート
私にとって必要なものがそれ自体が私であるというものはその人達にとって何の意味があるのかわからないものでした。
それならば私はどうすればいいというのでしょう?
私が私である以上、世界に受け入れられないのなら私は私であるということを捨てるべきなのでしょうか?
これから先も人と顔を合わす度に私であることに疑いを向けなければならないのなら、それで私は世界と合一することが出来ないのならもう私は私を続ける意味など理由など価値などないのではないでしょうか?
けれども私は死というものをそう易々と受け入れることなど出来ない
昨日「the town of light」という廃病院を精神病患者として記憶を辿るというゲームをやった。その患者は統合失調症で妄想と多重人格によって苦しめられるのだが、いやその患者のそれは決してその生まれ持った不幸によって逃れようのない悲劇ではなかった。心無い母の恋人の粗暴や逃れられない苦悩を馬鹿にする学校のクラスメート、面倒ごとを避けそれは既に壊れているものだとして手のかからないように扱う病院。それによって悪化した精神によって母が死に、青い狂気のような病院から逃げることが出来ないと知るとはさみを胸に突き刺したりカーテンによって首吊りをする。私は首吊りをしかけた事があるのだが、それを実行した骸を眺める機会などなかった。それは見かけ上は単に天井から切れた電球が垂れ下がっているようだった。しかしそのシルエットは明らかに垂れ下がった人である。それは信心深くない私には悪魔だとか天使だとかで形容することは叶わない。真っ白な何もない空間の中に私を正面に見据えた垂れ下がる影が一つ。近づいてみるとそれは影ではない人だ。正直、これを見た私は自分が死というものを軽く見て軽くやってのけようとしたことが無謀に感じる。どれだけ人の道を違えようと社会の屑になりなんの役に立たなくてもこれは間違っている。
これは決してその人が間違えているということではない。その人は罪はない。罪があるとすれば誰もその人を見ようとしなかったことだ。私はそういう人をわかってあげたい。それは同情かもしれないがなぜ同情するかといえばそれは私でもあるからだ。私も大分収まったが強迫性障害という神経症がある。妄想まではいかないが鼻をかんだだけで手を洗いに行かなければ済まなくなる。それも2度も3度もだ。だからそれがわからないわけではない。人の妄想というのはある時点での自己の防衛であるのだ。この主人公では母の恋人、病院の人扱いしない生活、私の場合は同じ部屋にいると何かにつけて癇癪を起こす父親。そういうものに対して自分が怒っていると、許せないということが表に出せないとそれは当たり所のない怒りとなっていつまでも残り続ける。主人公も金銭的な問題から母の恋人のしたことを正当化しなければいけなくなっていた。それは私も全く同じであり親だから私がミスをしたらどれだけ怒ったとしてもそこから逃れることなどできなかった。私も主人公も子供は一人で生きていくことなど叶わない。苛烈していく従属という惨めさ、それを処理するには妄想や強迫の安心しか残されていない。私は手を洗うと紅茶を飲んだ時や本を読んだ時のように安心していた。これで私は大丈夫だと、汚くないと言えるように感じていた。
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