誰かの目にねじ込んでしまたい
フロムの言う「自分自身と世界の同化」というのは否応ない事実でした。正常な人は自分を表現するとともに周りにそれが受け入れられる。そうして同化を成し遂げる。精神病者は自分を表現しても周りにそれが受け入れられない。そうして自分の作った妄想という世界を作り出し同化を得る。
では私はどうなのでしょう?
私は自分を表現してそれが世界に受け入れられているのでしょうか?
先日学会の発表がありまして自分の行っていた研究を発表しました。発表をしているときは前日にも、その前の日にも身を粉にして練習してたかいがあり尊大で先進的な私を見てもらっているようでした。私は今振り返ってもこれまで発表の場でここまで饒舌に話せたことなどないと思っております。
私は信じていました。この研究というものが私自身でありそれを公にすることで世界と同化できると。
いや、正直いうと自信はなかったのかもしれません。先生が幹事を務める学会で発表する人が少ないので発表してくれないかと先生から誘われたときに実験を協力してもらっている恩から、または学会で発表することで私の大学に行くための自分への建前である「技術で世界を変えたい」というものを少しでも叶えられるという思いから引き受けたその瞬間から私は学会で発表しなければいけなかった。
人は何か理由を妄信しなければ何かをすることはできない。そういう呪縛から私は私にそれを行うためのわけを信じ込ませなければいけませんでした。私が研究など投げ出して発表なんてすっぽかして学校など行かなくなって部屋で自分の世界を保とうと逃げ出さないために発表することは無意味ではないと世界への同化だといわなければなりませんでした。
自分でも自分の研究の未熟さはわかっていました。だけどだからといって一度言い出したことを断れない、それに今発表しなければ私の願いは誰にも確実に届かない。だからやるしかなかったんです。
しかしまあ結果は散々でした。罵倒すらされないものの私の行った実験からそのような結論が出るのは疑わしいらしく私は何度も実験結果を見せて弁明しなければなりませんでした。一人からは実験のデータのとり方の不備やデータの少なさを質問され、そこはこれからデータを増やしていくつもりだということしか言えませんでした。席についてからうっすらと奥の方の教授が「はきはきと説明してたのに…○○」と言っているのが聞こえました。休憩になって居心地が悪くトイレにいったときも担当教授は気まずそうに「おつかれー」と言ってくれました。
結局の所ところ私の伝え方が悪かったというより実験自体が受け入れられていないことは明白でした。
私の行った研究は人が自分で物事を選択しているという感覚を否定することに繋がることでした。確かにデータのとり方やデータの数は足らなかったかもしれませんが、それが揃ったところでなにか「それは違う」と言わずにはいられないものだったと推測します。
私にとってこれがあれば世界が変わるといえるもの、苦しみながらどうにか現実に落とし込んだ答えは他の人にとって変わらなくていい知らなくていいものだったのかもしれません。
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