拝啓、それだけ

 頑張っても頑張らなくても同じだった。頑張っても頑張らなくても世界は変わらなかった。世界が変わらないと何も意味のあることなんてないと思った。何も私を救ってくれるものなんてないじゃないかと。だとしたら何のために頑張ればいいんだと。じゃあ私は今、学校を否定し、内定をもらった会社を否定し、教授に言われた研究をやる意味などなく引きこもるべきなのだろうか。頑張らなければそれでいいのか。かといってすべてを否定し自分をも否定した先になど途方もない空虚しかない。じゃあ答えはなんだろう。正しさも間違えも善も悪も勤勉も怠惰も答えじゃなければ何を選べばいいのだろう。いや、よく考えてみると今私の見ている世界はその時のそれとは違うのだ。私の自由を奪い脅しや暴力をする父親とはもう何年も一緒に住んでいない。こないだ私の住んでいるおばあちゃん家に来た時は人生で初めて今までの理不尽をすべてさらけだしてこれ以上ないくらいに否定した。学校は大学生になって1,2年は課題はいくらかあったが一日一つぐらいであり、学校さえ信じられなかった自分でもなんとかこなせる量だった。更に今は研究室に入っておりは全く研究が進まなく卒業できるかわからないというもの以外は割と自主的なペースでやってもいいというスタンスでいてくれる。友達だって別に誰も面白いこと言わなければいけないと思ってないかもしれない。むしろ自分を晒し相手を受け入れられる場所であってほしいと思っているのかもしれない。内定先の会社の人も入社するまでに新入社員が心配ないように(入ってからなじめなくて辞めてほしくないというのもあるかもしれないが)同期や先輩と話す機会作ってくれた。しかもそもそも私のような不登校の経験があることを知っていてそれで入れてくれるなんてなんて寛大な会社だろう。


 今の私は以前のように父のご機嫌取りの奴隷にされることもない。学校に難関大に行かせようと躍起になって課題をやらされることもない。友達に面白いやつだと証明する必要もない。会社もなんとなく失敗してもそれで勉強になればいいという寛大さがある。今、私は以前のように馬車馬のごとく頑張ることを強制されていない。どうしても前は高校と大学、父とバイトの店長、高校の友達と今の友達。それらが切り離すことが出来ずに私は前と同じで反抗し否定していた。けれど今、私は自分が押しつぶされるような量を人に強制されていない。大事なのは過去のものと今のもの、それが別のものとしてそれ自体を捉えることだった。過去のものは忌まわしい悪であったと思う。それは変わらない。でも今のものは過去とは別のものだ。そこに先入観を挟んではいけない。私はモノに対しても、人に対しても過去の悪とは別のものとして新しいそれ自体のものとして捉え、考えたことを行おう。

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