機械人形はその人を見たい

 私はどうにも勘違いしていたようだ。以前人との会話にはお互い知識を共有していると書いた。それ自体は間違っているとは思わない。ひたすら私の知らない芸人やテレビの話、アニメの話をされているだけではつまらない。一方的に話を語る場であるプレゼンや本、アニメであったとしてもできるだけ相手に理解してもらおうという努力は必要である。そんなわけでこの一週間近くを自分と相手の共通点を探すように勤めてそれについて話してきたわけだ。しかしそれと同時に何か息苦しさを感じていた。それは相手が全く知らない相手である場合そんなもの中々ないということだ。そりゃあ初めのほうはコロナ感染者が減ったよね?とかこないだの台風言うほど大きくなかったね。とかいう世間話はある。しかしそれも早々に尽きる。(え、この話もう終わりかあ…ほかに話すことないなあ)ということをいくらか経験した。もっというとこれは全く知らない相手じゃなくても起きた。ある程度共通の趣味であるアニメやゲームの話が終わるとどちらが話題を出すかというひそかな心理ゲームをやっている気分になる。


 それにも関連するのだがそれとは別に自分の話すことについても考えていた。会話とは自分の考えを伝えることがその半分の部分だ。であるならもし面白い話がしたいと思っているなら自分か相手どちらかが面白いと感じる必要がある。それについて相手にわかるように説明することで初めて面白い会話となるわけだ。ただ会話というのは面白い話をしなければいけないという前提はない。それが明るいはなしでも悲しい話でも自分を相手が分かって相手が私をわかればそれは会話なのだ。正直いうと私は会話というもの自体が面白い話をしなければ意味のない場に感じていた。それは人と接する際に相手を思いやって楽しい話をしよう人が思うことが前提であった。世には話し方を論ずる本がたくさんある。その中には以前読んだようなどういう心構えで話せば自分の考えが伝わりやすいかという本は話すときに相手ありきだということを教えてくれたいい本だった。だが会話するというのは思ったより私が人の本質だと考えている些細な気まぐれののようでそれがすべてを決めるおごそかな選択、自由意志によって編み出されているものだと感じる。思ったことを言うかいわまいか、それとも別の言い方を探すか。話を続けるか続けないか、どうこの場を綺麗に閉めるか。この人と親しくなろうかなるまいか。もしそうなればそれはやはり話し方云々でどうにかなる問題ではない。私それ自体とあなたそれ自体の出会いでありぶつかり合いであるのだ。それならばもう私という人間をどこまで人にさらけだせるかそして相手という人間をどれだけ受け入れられるかそういう問題なのだろう。

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