見つめ返してくる目が私の声だった

 この上ない自己の喪失。今までの人生になんの意味があったのだろう。そう思う他なかった。私とこの部屋はなんの光も見えない宇宙のなかの船、あるいはもう浮き上がる術を失った潜水艦。それにとっては他の何者も意味をなさない。宇宙船にとって光の届かない、観測できない世界で星が生まれたり散ったりしたところで宇宙船はただそこにあるだけ。あるいは地表なんてよりよっぽど地球の地面に近い深淵の青のなかではどれだけ水上で嵐が吹き荒れようともただ沈んでいくのみ。かといって日々の作業としての生活に特に何かあったわけではない。むしろ何もないのが不意にそこにあるのが普通であった地面が消えたようで怖い。誰かと会ったり精力的に働いたとしても表面上その場しのぎの心の底の私ではない。その表面も私ではあるが、その場の生存を迫られた哀れなヒトというものでしかない。そこに意味であり価値であるやったかいがあったと思えることはない。私はどこにいくのだろう。私は人を理解しようとしたがそもそも人を理解したいと思っているのか自信がない。最もそれこそが重要なことなのだ。むしろそれ以外など関係のないものだった。


 私は探した。ひたすら探した。自己にとって意味のあるものとはなんなのか。寝ずに必死になって自分に問いかけた。私の価値あるものとは?体は波にさらわれた。体の関節という関節に釘が刺された。金や名誉などの世間体を排すべきか?そういうときの答えとしてありがちな人への繋がりに心を改めるべきか?しかしそれも哲学や宗教、今でいう科学が道徳を保つための答えではないのか?それに身を捧げて人のために生きることで全てが報われるのか。人の評価を気にしてこれからを生き長らえなくてはいけないのか。私の求めるものとはなにか?その答えは何回も思い出しては違うと考えたものしかなかった。ずっと忘れたものをふと思い出すような満足感もなかった。私はやったかいがあったという意味を実感すること、それを努力することでその努力自体を味わいそれを味わうためにまた努力をすること、それのためなら何でもできる。これは何かを我慢した結果、成功を得られるという受験勉強のようなものではない。それはただ勉強すること、なぜそれが作用しているのか?身近なものにどんなふうに使われているか?なぜそのような答えになるのか?その過程を理解すること自体にしみじみとしたものを得るということだ。たとえそれが理解できなかったとしてもそれが映画のワンシーンのように成功とはいえないことにも価値を見出すことはできる。歴史に名を残さない、誰かに知られることもないその人の生きざまに価値がないとは全く思えない。むしろ例えそれがぎこちないものでも狂気であったとしてもその必死に藻掻く様は誰にも出せないその人しか出せない価値のある誇りであると感銘を受ける。私は今という瞬間をそれとともに迎えることになら死力を尽くしてもいい。それが怠惰なものであってもその瞬間に意味をだせるもの、そのためになら価値を信じることが出来る。

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