これ以上の答えなんてあるの?
コオロギの鳴き声が「リーリーリリリー」と聞こえる。近くでバイクが「ブロロロロォ」といって走り去っていった。今は心地よい涼しさの秋の夜。外には人がいるのがわかるが競争や名声を求めるものなどいない。そんな世界で私は霧がかかったような湿り気のある空気の中に座っている。もう私は何を自分に課すこともしない。この世の良さも悪さもなんの意味があろうか。人の感覚には限界がある。もしこの世界が思い道理にすべて進んだとしてもずっと幸せではいられない。人が幸せだと感じていたこともいつの間にか幸せだと感じる基準が東京のビルを真下から見上げた時のような大きさになってしまう。世間では幸せになることこそが絶対の善としてある。けれどその先にあることに皆は気づいているのだろうか。それとも私のように幸せを目的とし、それを目指すことに疲れた人などいないのか。それともそれを目的としないならば何が目的になるかわからないから仕方なく幸せであることを目指すのか。彼女を作ろうと必死になって場に合わせることも、友達であることを示すために沈黙に居心地の悪さを覚えることも、その先に自由があるからと今を我慢して受験勉強に励むことも、それこそが善であり幸せであり答えなのか?そうやってきた結果恋人がいて友達がいて高学歴であることこそ正解だったのか?それを疑った私こそ悪でそれを選ばなかった自分こそ間違えだったのか?
私も誰もそれを望んで得られないものなどない。友達や恋人を作るなど人に会い続ければいずれそうなる人に会えるだろう。受験勉強なんてひたすら理解と問題を解いてればいずれ合格にたどり着く。ゲームで勝ちたければずっとそれをやったらいい。大抵のことはひたすらそれを続けることで解決する。無論、成功するには失敗が付き物であり一つの失敗もせずに成功するなどありえない。けれどそうして得られた成功も永続的で絶対的でもないしそれでどれだけ自分が感銘を受けれるかなど保障してくれない。更にそのひたすらやるというのも数え切れない選択の中でそれを選ぶということが条件だ。もう正直言って疲れた。そうまでして選ぶ価値のあるものなどこの世にあるのだろうか。私は自由だ。今「コノヤロー」と謎に叫ぶこともできるしいきなりダンスを始めることもできるし、資格の勉強を始められるし、研究を進めることもできる。ゲームだってできるし音楽も聴ける。友達を話しながらゲームをすることもできるし下の階にいっておばあちゃんとはなすこともできる。もうなんだってできる。誰の指図も受けないこともできるし人の言うままに懐柔させらることも選べる。でも私は何を選ぶ?そこになんの意味がある?人に理解され幸せなら答えなの?誰かに勝つことに意味なんてない?もう私は何を選べばいいの?
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