帰り道、家々の灯りの中、歩を進める

 また父親が母親に理不尽にキレたらしい。一番したの妹もうるさいと抗議したがすると逆に妹にとばっちりを食らったらしい。私は一週間前にこんな独善的で権威的なふるまいを許さないと決めた。だから次の週末にいかに自分の行いが間違っていたかを思い知らせに行こうと思う。言うまでもなく争いになるだろう。それに今、実家に住んでいない自分にとってどれだけ得になるか知りえない。けれどそうやってほかの誰も家庭的なことだからと理由をつけて助けてくれないかったのが学校に行かなくなった時の私であった。これをせずに何をする?ということだ。正直言って私は人に怒るのが苦手だ。おばあちゃんや一緒にゲームをする友達は怒ることさえよしとしない。ゲームをする友達曰く、そいういう理解のない人もいつかわかってくれるかららしい。いつかなどもう待ちくたびれてしまった。20年と何年かそれはいつかといっていい長さではないだろうか?私は先週あれだけ父に直接否定したのにも関わらず今週も同じことをしたのだ。確かに人は変わらないかもしれない。50年も自分勝手にふるまった人が今さら悟ることなんてない。けれどそれを統制しなければ誰が見ても悪ということに母は死ぬまで苦しめられることになる。あんな男の嫁になったその時から電話にでないとかだけで「いつもお前はそうなんだよな、自分のことしか考えられない。母親なら父親を支えるのが役目だろうが!」とがみがみ言われて運が悪ければ顔にあざを作るような運命に拘束されるなど悲しすぎるだろう。

 私にとってあの威厳的な父に抗議をするというのはものすごく疲れることだ。先ほどその話を聞いた時から肺の中に鉄球が入っているような感覚が抜けない。先週は父に生まれて初めて徹底的に抗議すると決めてから2,3日ずっとこの調子であった。スマホを手鏡代わりにすると絵にかいたような困り顔と目が訴えかけてくる。こうした正義も強制じゃない、私は見て見ぬふりができるのだと。先週にこれまで思っていた不満をビー玉の袋を逆さにしたときのようにぶちまけたじゃないか。あの時は正直いうと自分のためにやったことであった。様々な精神疾患の根元にある問題、愛着障害。多くの人は親が自分を愛してくれているという安心の中で様々なことにやってみようと思えるらしい。しかし私にはそれがない。むしろ親というのは克服しなければいけない壁というものだった。私が初めて夜更かししたのは3歳か4歳ぐらいだろうか。今とは違う70年代の団地を想起させる社宅の一番上の端から二番目の部屋だった。そこで外からの光がなくまぶしいような白の蛍光灯を囲む2LDKの缶詰の中。またなんでかわからずに言い争ったり、というか父が一方的に叱責して母が弁明するのを「もうやめて」と半泣きになりながら止めていた自分。しかしどうにも怒り疲れたようで一瞬の間が開く。そして見上げた時計は短い針は3、長い針は12を指していた。そんな狭く苦しい日を小学1年生まで味わわなければいけなかったし、そこから高校3年生まではステージが一軒家に変わっただけで本質的には変わらなかった。そんな自分にとって親の愛など一人道を歩くなか同じぐらいの年のグループが大きな声で駄弁りながら過ぎていくような遠いものだった。父は無論のこと母はすっかり父にとって都合のいい母という役にさせられてしまった。もうすっかり父の怒りをどうなだめるかということに目を向けるだけであって、父のいう怒らせるようなことをするお前が悪いという考えから逃げられなくなっている。実は今週、父が母にキレたのを知ったのはおばあちゃんに話を聞いたからであった。なんでも母はおばあちゃんに父のことを悪いように息子である私に聞かせないでほしいと怒ったらしかった。母曰く、父に怒った分は私に返ってくるかららしい。私の先週の父への抗議が影響したようだ。私は父へ抗議する前にどのようにあのような人に対応したらいいかを知る必要があった。そこで「デートDVと恋愛」という本を読んだ。うちの父親は中学の時に私が寝ていたところを背中から蹴って内臓から出血させ入院させたり半年前にも母が顔あざを作っていたりと毎日のように殴る蹴るをしなくてもDV加害者といえるものだろう。そこには殴る蹴るといった暴行だけでなくそれまでの心理的支配についても細かく扱っていて大変参考になった。DV加害者はいかに自分の行動が正当であるかということを被害者に思い込ませるのだ。今回の件もよく考えてみるとくだらないことで頭に血が上りキレるような父が悪いのに母はまんまと父の言いなりとなって息子が抗議することをやめさせようとしている。こんなおかしいことあるか。

 こんなことを私はずっと繰り返されてきた。ふと思うのだこんな父親ではなく私の話を聞いてくれたりそれとなく人生の教訓のようなものに気づかせてくれる父なら私は今何を考えているのだろうと。そこまででなくても甘い牛乳いっぱいのコップを倒したぐらいで大声で「あーあお前なにやってんの?」と目を大きく見開いて何をいっているのか、言葉が何を意味しているのかわからないように怒鳴りつける親でなければなんでもいい。当事者じゃないのでそうした人からは浅はかなことと思われるかわからないが、これならば父親がいなく母は貧乏ながらも父を気にすることなく暮らせたほうが幸せではないだろうか?友達をみるとただゲームをするだけであってもそれが現実からの逃避ではなくただ単に楽しいからやっているんだなと疎外感を感じることがある。おじさんはおじいちゃんのことを尊敬していたらしいし、3つ下のいとこも父親であるおじさんを尊敬しているらしい。おじちゃんは余り話す人ではないし最近は何年も会っていないが、正月に私の今住んでいるおばあちゃん家に来た時に勝手におじちゃんのプラスティックでできたP226という銃のエアガンを出していたのを知って置き土産にどこから出してきたのかわからないプラスティックと比較にならないような金属のフレームでできたP226を置いてってくれた。そうした口には出さないいつの間にかあるような心遣いには感動した。別に社会的に認められるようなこと、例えば彼女を作ってるとか研究で論文をかけるとかバイトをしているとか資格の免許をとっているとかそうしたものは欲しくはあるがおまけのような人との違いでしかない。そうではなくてただゲームだって勉強だって恋愛だって文学だって、それだけに思いをはせることができるというものに憧れを感じてしまう。

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