病院の探し方

@arup

割れたグラスに注ぎこむ水さえない

 私は人に理解されていないのだろうか。それとも人は私を理解していたとしても面白みのない人間なのだろうか。

 最近知るようになったのは口数が少ない人間というのはあえて自分の考えというものを口にしないという選択をしているということだ。人は誰しも何か考えている。よく話す人と無口な人の違いはそれを口に出すか?それだけなのだ。ただ人は誰しも選択をしている。今日の朝食はパンのトーストで済ますか、それとも手間はかかるが目玉焼きでも焼くか、図書館にいくか、音楽を聴くか、ここで裏切るか、いい人を演出するか、ひとを信じるか。そしてその選択をするとどうなるかを予想し一瞬一瞬を形作る。ただ、考えてもみてほしい。会話をするというのは自分の考えている状態を相手の頭に映し出すことだ。自分という型によって相手の状態を同じ形にするものなのだ。いうならばそれ自体が自分自身だ。それを相手に鑑賞してもらうなどどれほど緊張するものだろうか。これを周りの人たちは平然と終えて今日を終え、平然と次も同じことをする。そして私はそれをただ見ているだけだ。まるで砂漠の中一人で星空が移り変わるのをいつまでも眺めているようだ。私はいつまでここに取り残されているのだろう。私なりに努力はしているつもりだ。気軽に会える友達が欲しいと思って気が進まない中飲食店のアルバイトをしたり、気の合う人が見つかればと思い怒られに行くような気持ちでバーベキューやパーティー?みたいなものにも行った。けれどそのようなことにはならなかった。ほかの星たちはどうやってお互いに引き合っているのだろうか。私なんていう星屑は引き合ったと思ったらそれによって一周回って早くなって離れていってしまうスイングバイだ。こんな状態が年々も続いている。

 最近は私の考えているものの伝え方が問題だと思い、「わかりやすく説明しよう」という本を読んでいる。これによってそもそも私は人に理解されるように話していなかったということが分かり面食らった。しかしどうも、伝え方についてすこし知ったことでそれ以外にも問題があることが分かった。それはそもそも人は持っている知識がそれぞれ違うということだ。これは想像以上に厄介なことだ。私は一時期、場を笑わせるというものに必死になったことがある。笑いというのは実に難しい。よく言われることが笑いには共感と意外性とか新鮮味とか言われていることだ。学校の問題とかなら必ず事前に暗記した知識か技能によって文章を解くということをすればいいものだが、笑いに関しては問題すら与えられない。共感、共感、意外性、新鮮味とか唱えていても何も思いつかないのだ。そうして自分も相手も何も言えだせないときほど自分の無能を味わう機会はない。そうしていているときにコミュニケーションについて検索してみたら「コミュニケーションとは出来事や感情の伝達」と出てきた。それなら私が何かについて面白いとかいった経験をしていないとそもそも面白いものなんて伝えようがないじゃないか。これは想像以上に厄介な問題だ。私自身決して面白いものが嫌いというわけではないし、そのような人などなかなかいないだろう。けれど私の人生、日々はそこまで面白みのあるものではないぞ。そのようにして頭打ちになった私はその友達たちとめっきり遊ばなくなってしまった。

 ただそうした面白さだけに囚われたものなど息苦しいのみだということはわかっている。だからこそ面白さとかそうした人になることを目指すのではなく、人を理解し人に理解されようと努力しようと努めているのだ。だからといってそれが唯一正しい答えなどでは決してない。人は自由であるのだ。机に自分の飲んでいるジュースを勝手にこぼしてここに置いてあるのが悪いと逆ギレしだす人間に理解しあうなど絵空事でしかないし、もしできたとしてもそんなことしようと思わないだろう。人と理解しあうというのは私の選択のうえで目指すものなのだ。これは大いに反感を買うかもしれないが家族とか学校とか会社とかそういうものはそれを前提としたものである気がしてならない。私は親への反発を社会へ転嫁することがあったしもしかしたら今もそうかもしれない。けれどそれを知った上でもそういうことへの違和感を感じる。生きるのに金を稼ぐことは必要だよね?じゃあこれに従いなさい。暗にそういわれている気がしてならない。きっと自死を選ぶ人は直接的な加害者だけでなく、それを切り抜けた後も当たり前とされていることによって苦しめられると知っているのだろう。他人ごとにように言ったがそれは私でもある。私はそれを知ってもなおこの世界の人を理解しようとするのだろうか。

 私にとって最も恐ろしいのはただ単に押したら音が鳴るような機械であることだ。ただ単に人という生物として、生まれてきた宿命として理解しあわなければ生きていけないからそれを選ぶとしたらこれより悲しいことはないだろう。こうして社会を否定した先に何があるのか全く知らないわけではない。私は不登校になったことがある。こう書くと自分の無学を晒すことになりどこにも逃げ場がなくなるかもしれない。私にとってこうして文字を読んだり書いたりするのは唯一、他人より気取れることであるのだ。その学問的とされる部分でさえ切り取られたらそこには何を考えているのかわからない競争に負けた人間しか残らないのかもしれない。それほど不登校というのは犯罪でも犯したような烙印に見える。しかし当の私にはそんなものなど価値がなかった。むしろそのような主流秩序によって出来上がった私を後悔していた。私は寝る間も惜しんで勉強に勤しみ勝ち得た進学校合格というものの無価値さを知ってしまったのだ。

 

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