第三章 宮廷薬師として
第11話 王宮での生活
「薬師殿ー。手が空いてからで良いので、傷薬をもらえないだろうか」
エキスシェル王宮の一角。
夕刻、宮廷薬師の詰め所に、演習を終えた騎士が数人我先にと姿を見せる。「俺も」「オレもだ」とあっという間に入り口が黒山の人だかりとなった。
向かい合う形で六台置かれた机のひとつで書き物をしていたアリスは、素早く立ち上がる。
「後でと言わず今で大丈夫ですよ。毎日のことなので、多めに用意してお待ちしていました。簡単な擦り傷切り傷の方は、ご自分で。いつものように、この薬草をすりつぶして湿布として肌にあてておけば一晩で傷口も消えるはず。今日は、ひどい怪我の方はいますか?」
テキパキと話しながら歩いて行き、入り口そばの飾り台の上に置かれたトレーを示す。処方用の袋に詰め、渡すだけの状態にした薬草がいくつも並んでいた。
その台の横から、ふらりと中まで踏み込んできた大柄な騎士が、胸を手でおさえて呻く。
「
「そこまでの怪我を?」
う、と言いながら男はその場に膝をついた。
素早く歩み寄ったアリスは、かがみこんで「どこですか」と尋ねる。瀝青は薬草ではないが、同じく貴重な特効薬に使われるもの。アリスも扱うことはできるものの、おいそれと処方できるようなものでもない。少なくとも使用には室長以上の権限が必要になる。
「痛くて痛くてたまらないんだ。オレはきっと心臓がやられてる」
茶色の髪を束ね、近衛騎士の制服に身を包んだ青年。宮廷勤めだけあって、仕事上がりであっても、小綺麗で洗練された雰囲気がある。
痛がり方は芝居がかっていたが、アリスの立場から「本当ですか。仮病では」などと問いただすのは憚られた。
ちらりと、窓を背にした位置に一人だけ離れた机を構え、書類にペンを走らせている黒髪の青年を振り返る。
「エイル室長。重傷者が……」
宮廷薬師筆頭代理。
アリスが推測した通り、この国の名門薬師一族の出身であるエイルは、肩書も
騒ぎには気づいていただろうが、完全無視。だが、アリスが声をかけると億劫そうに顔を上げる。
「嘘だ。相手にしなくていい」
「室長、見てもいないでそれはないだろ。手遅れになったらどうするんだ」
騎士がすぐさま威勢よく反論した。
(とても元気そう)
身振り手振りで不調を訴える近衛騎士を、アリスはしげしげと眺める。
本当に、どこが悪いというのか。心臓? と不思議に思いながら見ていると、視線を意識したその騎士は、ふわっと前髪がなびくほどの過剰な動作でアリスを振り返った。
「あなたにお会いして以来、胸の痛みが止まらないんです。これは」
「毒を盛ったことはないですよ。恨みも利害関係も無いですから。隣国から来たばかりなので、すぐに皆さんの信用を得るのが難しいのは、自分でもよくわかっています。それだけに、怪しいとみなされる行動には私自身、慎重です。たとえばどこに行くにも一人にならないように気をつけていますし」
誤解を招かないよう、アリスはきっぱりと言い切った。
(それは、ラファエロ
王宮内でも気を抜くな、一人で出歩かないようにしろ、と。
具体的にはこの詰め所にいる誰かと一緒に行動することが多くなっている。おかしな動きでもすれば、即座に報告を上げられるだろう。
今のところは、どこからも咎められることがないので、順調な滑り出しだとアリス自身は考えている。
「アリス殿。毒とか、そういう話じゃなくてね……。なんというか、胸の痛みにも種類があって」
近衛騎士の男はなおも食い下がっていたが、アリスが聞き返すより先に「邪魔するぞ」と入り口から声が響き、場が静まり返った。
眩い銀髪を束ね、仕立ての良い青のジャケットを身に着けた青年。
さっと道を開けた近衛騎士たちの横を通り過ぎて、部屋の中まで颯爽と進んでくる。
「今日も大盛況だな。アリスが来てからこの方、気のせいではなく演習での負傷者が多い。それが毎日、ここに殺到しているわけだが。どれ、どの程度の怪我か俺が看てやろうか」
「ラファエロ殿下、滅相もない!」
第二王子ラファエロを前に、集まった騎士たちは口々に言うと、薬草の袋を手に三々五々部屋を退散していく。
心臓が痛い、と訴えていた騎士の姿も、いつの間にか消えていた。
「大丈夫なのかな。痛がっていたのに」
入り口まで歩いて廊下に顔を出してみたが、遠くの廊下に数人の後ろ姿が見えただけ。それも角を曲がってしまい、見失った。
「アリス、良いように使われているようだが、軽傷者は追い出しても大丈夫だ。あいつらただアリスの顔を見に来ているだけだ」
「見ても面白い顔ではありません。皆さん、暇なんですか」
(近い)
音も立てずにすぐ隣まで来ていたラファエロを見上げて、アリスはもっともな疑問を口にする。
曰く言い難い表情で、ラファエロは「ん~」と呻いた。
何を言うつもりなのかと、アリスは姿勢を正して待つ。
唇をほんの少し開いたラファエロは、何も言わずにそのまま吐息した。
「アリスが加わってくれたのは心強いんだが、毎日これでは。俺の部下は思った以上にどうしようもない」
「これが仕事ですので、特に不満はありません。まさかこんな待遇を用意してくださるなんて、畏れ多いです。私は隣国の平民身分で、薬師としてもまだまだ一人前とまでは言えませんのに」
謙遜ではなく。
土地が変われば、手に入る薬草の種類も変わってくる。その意味では勉強することが多く、即戦力になっている実感もない。
宮廷勤めなど、辞退も考えないでもなかったが、「何かと側にいてくれた方が、例の件の進捗も相談しやすい」というラファエロの説得があり、引き受けることになった。
(知り合ったときは、何かしら身分がありそうな方だとは思っていたけど、まさか貴族ではなく王族。本来なら口をきく機会すらない相手……)
問題が片付いたら、できるだけ早くこの職を辞して、自分で生きていく方法を探そう。
アリスはそう決めている。実力が伴わないのに、安穏と宮廷勤めを続けることはできない。
その思いから、ラファエロに気さくに話しかけられても素直に応じられず、最近はどうも棘のある会話になってしまう。良くないとわかっているが、接し方を決めかねているのだ。
その戸惑いを知ってか知らずか、ラファエロはアイスブルーの瞳にほんのりと憂いを浮かべつつ、穏やかな声で言った。
「少し話したいと思って、ここに来た。時間は大丈夫だろうか」
「仕事はもうすぐ終わります」
アリスが控えめに答えると、それまで口を挟まずに書物をしていたエイルが、顔も上げずに「行っておいで」と言った。
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