3話 己を滅し、国を保て
1 対照的な兄弟
この忙しい時期に、どうして呑気に祭りなど……とは思ったが、これも伝統の一端である。ワルターは岩の玉座に座り、笑みを頬に張り付かせ、臣下に多忙を悟らせることなどしなかった。
今宵は、即位後初めての豊穣祭である。
本当は、今すぐにでも第一執務室に籠り、山のような書類に埋もれて少しでも公務をさばきたい。だが、豊穣祭の夜、王宮で開かれる宴をを滞りなく進めることも、
北方オウレアス王国との関係は未だ良好とは言い難い。国内の統制も整ってはいない。エレナが永遠の
「陛下」
不意に、囁く声がある。視線を遣れば、銀髪の騎士の姿が目に入った。イアンだ。かつてイーサン王太子とエレナに仕えた彼は、今ではワルターの護衛騎士となっていた。
「お疲れのようですね。少し気分転換をされては? 年に一度の豊穣祭です。
硬派なイアンらしくない言葉だと思ったが、全くもって彼の言う通りである。ワルターは「では少々」と腰を上げ、広間から続くバルコニーに滑り出た。
途端に、庭園から吹き上げる風に煽られる。秋口の夜は冷える。寒さが苦手なワルターは思わず腕を摩る。欄干の側まで歩いてみたものの、やはり凍えるよりは喧噪の中の方がましだと思い直し、踵を返そうとしたのだが。
「あ……陛下」
不意に女性の声がして、思わず足を止めた。見遣れば、深緑色の清楚なドレスに身を包んだ女性が一人、欄干の側で佇んでいた。一人きりであることが妙ではあったものの、彼女が顔を真っ赤にして慌てて膝を折るので、ワルターは手を振って応えた。
「失礼した。先客がいらしたとは。私のことは気にせず、ごゆっくりと」
「あの、ワルター様。いえ、陛下」
「畏まらなくても良い。失礼だが、どこかで?」
この国の全ての貴族には、一度ならず会っているはず。だが、無意識に個人名で呼んでしまうほど、気心の知れた知人だっただろうかと思ったのだ。
女性は弾かれたように顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見つめた。赤金色の瞳だった。高く結い上げられた彼女の髪色と、同じ色。それに気づいた時、ワルターの脳裏には、過去の豊穣祭の光景が蘇った。
「もしかして、ウェドラー伯爵家のリアラ嬢? セドナ子爵夫人……アナの従妹殿」
女性の表情が一瞬で明るくなった。間違いなかったようだ。ワルターは懐かしさに頬が緩むのを感じた。若かりし頃の無邪気な心に戻ったかのような気軽さで、リアラに歩み寄る。
「久しいな。息災だったかい」
「ええ、おかげさまで。その節はお助けいただき本当に……」
「いいや、気にする必要はない」
心から言ったものの、リアラの表情が一転して曇り、ワルターの右手に視線が向く。無意識に己の人差し指を撫でていたらしい。慌てて手を引っ込めたのだが、リアラの目は誤魔化せない。
「やはりまだ痛みますか」
「いや、大したことはないが……寒くなると時々ね。歳をとると古傷も痛むようだ」
言いながら、ワルターは感慨にふける。
リアラと出会った日、人差し指の骨に
※
「お前はレイザ公爵家の名を汚したいのか」
父の拳が兄の頬を容赦なく殴りつける音が、馬蹄の音と重なり馬車内に響く。座席には、握りつぶされた大衆新聞が転がっている。一面を飾るのは、異性関係にだらしない兄オスカーの醜聞である。
父が兄を貶すのはいつものことだった。兄は何を言われてもどんなに暴力を振るわれても、父に反発することはなかった。だがそれは、いかなる制裁を受けても行動を改めないということでもあった。
「申し訳ございません、父上」
「お前のような者が跡継ぎなど。……スタック公爵令嬢を娶っていなければ、お前のことなど聖都の
「妻には頭が上がりませんね」
やめておけば良いものを、敢えて減らず口を叩くのが兄であり、その挑発を真に受けるのが父であった。
家族の情の薄い、殺伐とした環境には慣れている。父は母を女中のように扱うし、母は己を顧みない夫を軽んじて、湯水ように金を使い着飾る。公爵邸はいつも、父の権力と母の豪奢のおこぼれに預かろうとする小物貴族で溢れかえっていた。
ワルターは末子特有の要領の良さを持ち合わせていた。自頭の良さは兄には敵わない。だが、兄や姉が何をして叱られて、何をすれば褒められるのかを自然と観察していたワルターは、兄のように父の気を害する振る舞いなどはしなかった。
『己を滅し、国を保て』。
乾ききった空気を漂わせる一家を乗せたまま、馬車は岩の宮へと到着する。宴が催される広間にて、
殴られた頬は少しだけ腫れていたのだが、それすらも笑い話に変えてしまうのが彼である。途端にオスカーの周りには人だかりができて、話題の中心になっていた。
兄は、弟の贔屓目を抜きにしても整った容姿をしていたし、人当たりが良く、格式にとらわれ過ぎぬ革新的な価値観を持っていたので、若い貴族らには好かれていた。王国随一の貴族家であるスタック公爵家令嬢との婚姻が決まった時には、涙で枕を濡らした女性が溢れ返っていたとかいないとか。
ワルターは、既婚者だというのに令嬢らに囲まれて葡萄酒のグラスを傾ける兄を呆れ交じりに眺める。視線に気づいたのか、彼が片目を瞑ったので、ワルターは、赤く拳の跡が残るオスカーの顔に向かって溜息を吐く。
「兄上、今晩くらいは大人しくされては?」
兄は大仰に肩を竦めた。
「何を言っているんだワルター。年に一度の豊穣祭だ。ほら、葡萄酒でも飲んで、傷心を癒してこい」
「傷心など」
「傷心だろう。お前の女運のなさには心底同情するよ。さあ、飲め」
兄がグラスを押し付けて来たので、仕方なく葡萄酒を煽る。喉を流れる熱い物に、顔を顰めた。酒は嫌いではないが、傍から見ればやけ酒にでも見えただろうと思ったからだ。
主張しておきたいが、断じて傷心ではない。ほんの数日前に、婚約者がどこぞの平民と駆け落ちをして姿を消しただとか、そういえばその前の婚約者は突如として信仰に目覚めて女子修道院に入ってしまっただとか、確かに酷い事件に見舞われ続けているのだが、別に彼女らを特別好いていた訳ではなかった。
そもそも、身近な夫婦といえば父母か兄夫妻くらいのものなので、破綻した関係しか目にしてこなかったワルターは、結婚というものには何の幻想も持ち合わせていなかった。
将来妻となる女性のことは大切にしたいと思ってはいたが、どのように接してどのように愛すれば良いのか想像もつかない。いや、そもそもそんな人間じみた感情など、不要なのではないか。己を滅し、国を保つのであれば、情などと言うものは、足枷にしかならないだろうとすら思えた。
「ああ、そういえば」
兄がふと思い出したように言う。
「アナ嬢が、南に嫁ぐらしいね。幼馴染だろう。最後にダンスでも踊ってきたらどうだい」
オスカーが顎で指示した先には、赤金色の髪の娘。しばらく見ないうちに、美貌に磨きがかかったようだ。体良く追い払われようとしている気がしないでもないが、ワルターは嘆息しつつも素直に、幼馴染の元へ向かったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます