2話 どこかとても遠い場所へ

逃亡姫と背教の乳母

星の姫セレイリがいらっしゃいません!!」


 若い侍女の悲痛な叫びを耳にして、メリッサは軽く眉間を押さえた。


 エレナが忽然と姿を消すのは、毎度のことだった。神笛の練習が嫌だと言っては器楽室を抜け出し、授業が億劫だと言っては書斎を飛び出した。けれどここ数年は、あのお転婆娘も成長をして、だいぶ落ち着いてきたと思っていたのだが。


「大丈夫よ。すぐに帰って来るわ。いつものように」

「ですが侍女長。もしかしたら……ほら、この前のことがありましたから……」


 言葉を濁した侍女だったが、メリッサには彼女が何を言わんとしているのか、理解ができた。エレナがこの王宮から逃げて、星の姫セレイリの責務を投げ出すつもりではないのかと、憂いているのだろう。


 数か月前、星の姫セレイリが女神に捧げられる祭祀が執り行われる寸前までいった時。あの日もエレナは、気づけば星の宮からいなくなっていた。


 自らの命が惜しくなり、どこかへ逃げたのかもしれない。宮中に仕える者たちは顔面蒼白になってエレナを探したのだった。

 

 結局、酷く憔悴した表情で星の騎士セレスダを引き連れ、ずぶ濡れになった彼女は帰って来た。そのまま高熱を出して寝込んでしまったけれど、メリッサはむしろ、密かに安堵したのだ。まさか歩くこともままならぬほどの熱にうなされる星の姫セレイリを、祭祀の場に引き出すことはしないだろうと思ったからだ。


 そしてもう一つ。メリッサはその立場上、考えることすら決して許されないだろう願いを抱いてしまった。宮に戻ってきた時、幼い二人が固く手を繋いでいた様子を見て、あのまま二人が、どこかへ逃げてくれたら良かったのにと思ったのだ。


「あの日だって帰って来たのだから、そう心配しなくても良いでしょう」

「メリッサ様は星の姫セレイリを甘やかし過ぎです」


 忌憚ない言葉と口調に、メリッサは苦笑した。侍女は若さゆえか、遠慮なく言い募る。


「もう少し厳しくして差し上げてください。その方が、星の姫セレイリのためです」

「そうね。あなたの言う通りかもしれないわね」


 受け流しつつも意外に頑固なメリッサは、言葉通りには思っていなかった。エレナはきっと、若くして女神の元に召されてしまう。それを思えば短い人生、少しくらい我が儘を聞いてあげても良いのではなかろうか。もちろん危険なことはして欲しくないけれど、あの子が少しでも幸せに過ごせるのなら……。


 実のところエレナは、メリッサを絶望の淵から救ってくれた娘だった。遠い過去に思いを馳せる。もう十一年以上前、メリッサが自身の子を死産したばかりの頃である。ちょうど、追い打ちをかけるかのように、親友であった星の姫セレイリエアリアが命を落としてしまった時期とも重なる。



 生きている意味が見つからなかった。腹を痛めて産んだ子は、ほんの一瞬ですら産声を上げることはなかった。これまでも流産が続き、待望の子供だったのに、この子にすら、世界に満ちる光を見せてあげることが叶わなかった。跡継ぎが産めぬのならと、嫁ぎ先からは離縁を申し出られて、メリッサは実家に戻ったばかりであった。


 エアリアとメリッサ。二人の子供が仲睦まじく庭園を駆け回る姿を、友と二人微笑ましく見守る未来があるのだと何ひとつ疑ってはいなかったのに、そのエアリアすらも命を落としてしまった。


 打ちひしがれて部屋に籠っていたメリッサを訪ねたのは、星の騎士セレスダハーヴェルだった。彼もまた絶望に沈んでいても不思議はなかったのだが、思いの外しっかりとした声色で言ったのだった。


「あの子に会って差し上げてください」


 それがいかに残酷な懇願だったか、ハーヴェルに分からなかったわけではあるまい。自身の子を喪った直後、元気な赤子を目にすることを思えば、胸が切り刻まれるかのように痛む。さらにその子は、親友エアリアの死の原因となった赤子でもある。


「お会いになればきっと、私が言い募る意味がわかります。どうか、一度だけで良いので」


 ハーヴェルが一歩も引かず足繁くメリッサの元へと通うので、根負けしてエレナの待つ部屋に行き……騎士の言葉通り、心を奪われた。


 エアリアが帰ってきた。朦朧とした頭に過ったのは、そんな妄想であった。それほどまでに、エレナはエアリアの生き写しであったのだ。まだ赤子だというのに。


 何もわからぬままこの世界にやって来て、誰かに世話をしてもらわねば今日の命すら危うい、小さくか弱い存在。けれど、こちらを見上げる黄金色の瞳からは、ともすれば女神そのもののような神聖さすら漂うようであった。


 赤子の小さな手が、メリッサの髪を掴んで容赦なく引く。何か面白かったのだろうか、無邪気に笑う姿を見て、メリッサは己の運命を知った。


 この子を慈しみ、育てることが、神々がメリッサに課した責務なのだ。ほんの一握りも疑いの余地はなかった。なぜそう思ったのか、根拠は一切ないのだけれど……。



「メリッサ様、いかがされますか」


 別の侍女から声を掛けられて、メリッサは現実に引き戻される。あの時の赤子は成長をして、後数年もすれば成人をする歳になる。女神の元へ向かうその日まで、どうか健やかに生きて欲しい。そして叶うことならば、一日でも長く生きて欲しい。


 もし、あの祭祀が実行されていたのなら、メリッサは大人しく見守っただろうか。もしかしたら、エレナを連れてどこかへ逃げたかもしれない。実際には、星の宮に仕えるメリッサにはそのようなことは不可能なのだろうけれど、メリッサに無理なのであれば、誰か他の人が、それをしてくれても良い。


「メリッサ様?」


 黙りこくるメリッサの顔を怪訝そうに覗き込む同僚に、小さく首を振って答えた。


「何でもないわ。そうね、陽が傾くまではゆっくり待ちましょう。きっと星の騎士セレスダを連れ回しているのでしょうから、危険なことなどないわ」

「またそんなことを」


 先ほどの若い侍女が肩を怒らせるのだが、メリッサは苦笑を返して、ティーカップを傾ける。


「そろそろ帰って来るわよ」


 言いながらも心のどこかでは、背教的な考えがちらついている。どこか遠く、あの子の責務が及ばぬ場所に逃げ去って、幸福に年老いて天寿を全うしてくれたのなら良いのに。


 カップから漂う香りを胸いっぱいに吸い込む。生前、エアリアが好きだった紅茶の芳醇な香りに心が癒される。エアリアの嗜好について話したことはないのだけれど、エレナは自然とこの紅茶を好むようになり、星の宮には今も昔も同じものが常備されていた。


 星の宮は、主人を変えても何も変容しない。白亜の宮には今日も、エアリアがいた頃と同じ匂いが漂っていた。




2話 どこかとても遠い場所へ 終

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