終 それが全ての始まり

 翌朝、エアリアは何事もなかったかのように振舞った。


 いつものとおり朝寝坊気味に起床して、昼食を兼ねた遅めの朝食をとる。こんな調子で毎日一食少ないので、午後には必ず大好きな紅茶を飲んで、焼き菓子を摘まむ。もはや日課になっている甘味ばかりの軽食に付き合ったハーヴェルは、今日も午後の祈りの時間が終わればいつも通り夕食を食べ、また明日になればエアリアが寝坊して朝食をとり損ねる……という日常が繰り広げられるのだと一寸たりとも疑っていなかった。それなのに。


「今日から毎日夕食後は、岩の宮に行くの」


 突拍子もない話だった。星の姫セレイリ岩の王サレアスの臣下だったが、生活の空間は岩の宮ではなく、この星の宮だ。毎日わざわざ隣の建物まで行くだなんて、不可解だ。さらにエアリアは、いたずら好きの子供のような顔で、言ったのだ。


「誰にもばれちゃだめよ」

「まさか、私が手配するのですか?」

「あたりまえでしょう。私が行うこと、応援してくれるのでしょう?」


 言質を取られていたハーヴェルは何も返せず、警備の穴を縫って毎晩エアリアを岩の宮に送り届けた。岩の宮に着くと、決まって顔を隠した黒岩騎士が立っていて、エアリアをどこかへ連れて行く。最初はハーヴェルもついていこうとしたのだが、星の宮に戻るようにとエアリアに命じられてしまうので、彼女がどこで何をしているのか、知ることはなかったのだけれど。


「今日からは星の宮でゆっくりするの」


 またしても突然、エアリアは宣言をした。ハーヴェルが怪訝な顔をしたからだろう、エアリアは少し言い淀んでから、微笑んだ。花が綻ぶような笑顔だった。


「子供ができたの。星の女神セレイアの意思で、この身に宿った子」


 ハーヴェルは言葉を失う。というより、耳に入った音の意味が理解できなかった。星の姫セレイリが身ごもる? いったいどこにそんな馬鹿げた話が。


 驚愕が一巡してからやっと、全てを理解した。エアリアが岩の宮に通ったのは、このためだったのだろう。子の父親はきっと、岩の王サレアスだ。女神の意思云々というのは真実か詭弁かわからぬが、実のところハーヴェルは、毎晩エアリアを王の元に送り届けていたのだった。


 ハーヴェルを愛しているのだと、彼女は言ったはず。それは全くの戯れだったのだろうか。もし、先日の言葉にほんの一欠片でも真実があったのなら、彼女はいったいどんな気持ちで、ハーヴェルを伴い岩の宮に行ったのだろうか。


「ハーヴェル。これは女神が求めたこと。そして私自身が望んだこと。……この子が生まれたら、私のことのように守り慈しんでね」


 まだ懐妊の片鱗も見えぬ薄い腹を撫でたエアリアの目が、いつものように柔らかく弧を描いたので、ハーヴェルはもう、どんな言葉も口にすることはできなかった。



 時は飛ぶように過ぎるとは、よく言ったものだ。気づけはエアリアの子は胎動し、畏れ多くも主君の腹を撫でさせてもらったハーヴェルの手を、これでもかと蹴り上げた。


 エアリアは、とても幸せそうだった。自ずとハーヴェルも、幸福に満たされていた。二人で寄り添い庭園を歩けば、腹の子に実子のような愛情すら湧いて来た。そんな都合の良い錯覚を覚えてしまったのは、エアリアが子供の父親の話を一切しなかったからかもしれない。その様子を見ていた周囲の者が、腹の子の父親はきっと星の騎士セレスダだと噂をしたが、二人は気にも留めなかった。


 星の姫セレイリの懐妊は瞬く間に周知のこととなったが、主君である岩の王サレアスが黙認をしたため、エアリアの身に大きな危険は降りかからなかった。もちろん星の宮は大混乱に陥ったが、そもそも星の姫セレイリが子供を産んではいけないという規則はないのだし、彼女を罰する法は存在しなかったのである。


 ずっとこのまま、温かく幸福に満ちた日々が続くのだと思っていた。だが、臨月に入り、エアリアの顔色が優れない日が続くと、ハーヴェルは言い知れぬ不安を抱き始めた。エアリアが書き物をすることが増えたのは、ちょうどこの時期だった。


 時には食事すら忘れて一心不乱に文字を綴るエアリアに、ハーヴェルは不安を募らせたのだが、当のエアリアは「心配性なんだから」と鈴を転がすような声で笑うのだった。


 ハーヴェルがその手紙を受け取ったのは、出産の前日だった。後日思い返してみれば、まるでそれが最後の日だと知っていたかのような様子だった。


「どうして手紙だなんて」


 縁起でもないが遺書のようにも思えてしまう。そんなハーヴェルにエアリアは、何でもないことのように言うのだ。


「照れちゃうからよ。私ね、みんなにすごく感謝しているの。でも、直接言うのは恥ずかしいから。ほら、子供が生まれたら、今までとはきっと生活が変わるでしょう。だからこそ、今思っていることとか、今伝えたいことを、文章にしてみたの」

「それなら今この場で」

「だめよ! この子が生まれたら読んでねって、言ったでしょ」


 鋭く叱責されて、ハーヴェルは口を閉ざす。少し項垂れたように見えたのだろう、エアリアは呆れ交じりに呟いた。


「もう、本当にあなたって……。でも、そんなところも大好きよ」


 エアリアは「好き」という言葉の重さを知らないのではないかと思うほど、頻繁に口にしていた。それはハーヴェルに対してのみ向けられたものだったのか、今となっては知る由もないが、そうであって欲しいと切に願った。



 エアリアが女児を産み落とし、そのまま帰らぬ人となった。その報せは突然だったが、耳にした時ハーヴェルの心に満ちたのは、深い悲しみだけではない。まるで、悲しい結末であることを知っている物語を、もう一度読んだかのような、鈍く重苦しい寂寞だった。


 ハーヴェルはエアリアの手紙を紐解いた。目を通し、自分が彼女の振る舞いに対して感じていた違和感が誤ったものではなかったのだと知る。彼女は己の死に際を心得ていたのだ。


 胸の痛みは、ともすれば失神を引き起こしそうなほどであり、何をする気力も湧かなかった。だが、エアリアの最後の願いを軽んずる訳にはいかなかった。


 ハーヴェルはエアリアの手記を大切に折りたたみ、懐に仕舞った。侍女に案内をさせて、エアリアの子が待つ部屋へと向かう。扉を開けば、元気な泣き声が耳に届き、自然と肩が脱力した。緊張に身体が凝り固まっていたことに、今更気づいた。


 赤子はまだ光を映さぬ目で、ハーヴェルを見上げた。エアリアと同じ、黄金色の瞳。「女神の意思で宿った子」。その言葉が脳裏にこだました。


「エレナだ。この子の名前は」


 エアリアの手紙に記されていた名前だ。彼女は、自分がここで命を落とすことを知っていた。だから全てを、己の半身であるハーヴェルに託したのだ。


「ハーヴェル卿、しかしこの子は孤児院に」

「そのようなことにはならない」

「いえ、岩の王サレアスが直々に……」


 聞くや否や、ハーヴェルは踵を返して、岩の宮に向かった。岩の王サレアスはあの子の父親であるはずだ。エアリアが産褥で命を落としたとはいえ、この子には何の罪もない。ましてや、エアリアが心から待ち望んでいた子だった。それを実父がぞんざいに扱うなど、相手が王とはいえ、許せるはずがなかった。


岩の王サレアス


 王の私室も兼ねる第一執務室。その扉を、許しも得ずに開け放つ。岩の王サレアスは突然の闖入者に眉一つ動かさなかった。


「何事だ」

「陛下のご意思とは言え、あの子をよそへやることは許されません。あれは星の姫セレイリが……エアリア様が心より望み、命に代えて産み落とした、運命の子です。あなたもきっと、お判りでしょう」


 岩の王サレアスは、手にしていた紙を強く握った。くしゃり、と皺が寄る音がする。微かに覗いた筆跡は、エアリアのものだろう。それであれば岩の王サレアスもきっと、全てを理解したはずだ。あの子は……エレナと名付けられたエアリアの子は、女神の意思で生れ落ちた子であると。


「お気持ちはお察しいたします。ですがどうか、あの子を我々の側に……」


 王は何も言わなかった。だが後日、エレナを正式に次代の星の姫セレイリとする勅命が下り、王が翻意したことを知る。


 いつか女神に捧げられるべき星の姫セレイリとなることに対し、一抹の不安を覚えたのは確かである。だが、彼女の血筋を思えば、どこぞの名家へ養子に出す訳にもいかなかったのだろう。岩の王サレアスの苦渋の決断だったのだと、今となっては理解出来る。


 岩の王サレアスはその後も一切エアリアの手紙の内容を語らなかったので、果たして彼女がどこまで何を告げていたのか、ハーヴェルには知ることができない。


 また、ハーヴェルが手にした手記にも、肝心なことは何一つ記されていなかった。ハーヴェルに分かったのは、エレナを実子のように慈しみ、その成長を見守ることこそ、エアリアの……ひいては星の女神セレイアの望みを叶えるのだということ。


 時が過ぎ、ハーヴェルにも愛しい家族ができた。エアリアとの間で育てた思いは今でも心の奥底の宝箱にしまってあるのだが、あいにく文才のないハーヴェルは、あの気持ちを的確に表現することができる言葉を、持ち合わせてはいなかった。


 月並みな表現をするのなら、それは絆であり、紛れもなく愛情であった。


 エレナが星の姫セレイリとして生きることが女神の意思なのであれば、その物語の本当の始まりは、エアリアにまで遡るだろう。そして、彼女に寄り添ったハーヴェルもまた、女神の駒の一つである。


 あの砂塵の中。エアリアの黄金色の瞳に射抜かれた。それが全ての始まりだったのだ。




1話 物語の始まりは  終

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