2 『愛している』と言われたら

 ハーヴェルが星の騎士セレスダに叙任されてから、彼を取り巻く環境は大いに変化した。


 家族は彼を自慢の息子だと持てはやしたし、星の姫セレイリの口添えでもあったのか、汚職疑惑は濡れ衣であることが証明された。


 彼女がハーヴェルを選んだのは、選抜会場で汚職一家の子息として陰口を叩かれていた少年をを助けたいと思っただけの、ただの気まぐれだったのではないか。そう思い真意を訊ねてみたことがあるのだが、星の姫セレイリはただ、最初に見せてくれたものと寸分違わぬ美しさで、微笑むだけだった。


 星の姫セレイリはその個人名を、エアリアと言った。おおやけの場では決して呼ばれることのない神聖な御名。それを口にすることを許された時、得体の知れない優越感を覚えた。


 それは星の騎士セレスダとして認められたという喜びでもあったのだが、それ以上に、エアリアの心の特別な場所に寄り添うことを許されたという、愉悦であった。時が過ぎ、その俗人じみた感情の意味に気づいた時にはもう、エアリアはハーヴェルの全てになっていた。


 剣を極めようと努力をしたのは、家族に顧みて欲しかったからだった。だが、ハーヴェルは家族以上の居場所を見つけたのだ。


 いつか女神にその身を捧げる星の姫セレイリは、幼少の頃に父母から引き離されて、その後家族を得ることもなく、全ての星の民の姫君として、星の宮で暮らす。孤独を抱えた星の姫セレイリにとって、星の騎士セレスダは唯一気の置けない友人であり、多くの場合、それ以上の絆が生まれるのである。


 気づけばあれから約十年が過ぎ、この聖サシャ王宮の状況も一変していた。


 昨年、幼い王太子を残し、王妃が早世した。まだ若く、病の兆候もなかった妃の突然の死に、岩の王サレアスは暗く沈み込んでいた。


 エアリアと岩の王サレアスは十歳近く年が離れていたものの、幼少の頃より王宮内で共に育った仲である。岩の王サレアスの落胆を励まし、寄り添ったのはエアリアだった。


 そんな調子が一年も続き、年に一度の星の騎士セレスダ慰霊祭の日。エアリアは慰霊廟の中で突然意識を失った。側に控えていたハーヴェルは、ひどく動揺したのだが、感情を押し殺して宮廷医を呼ぶ。幸いエアリアは数刻ほどで目を覚まし、いつになく強固な態度で医師と侍女を病室から追い出した。月明りがぼんやりと差し込む中、室内にはハーヴェルとエアリアの二人だけ。


「どうかなさったのですか」


 エアリアの常にない様子に、ハーヴェルは問いかける。エアリアは元々身体が弱く、あの選抜の日ですら体調を崩していたのだという。だから過労から、慰霊祭の最中に倒れてしまっても、特段不可解な点などないはずだった。


 だがハーヴェルは、きつく唇を引き結んで顔面蒼白のまま寝台に横たわるエアリアの姿に、何か胸騒ぎを感じていた。


 エアリアは枕の上で首を横に転がして、こちらに視線を向ける。生気のない顔色だったが、黄金色の瞳だけが煌めいていた。彼女は少し躊躇ってから、呟くように言った。


「ハーヴェル、私が何をしても、びっくりしないで受け止めてくれる?」

「びっくりするかどうかは、内容次第です」


 馬鹿正直に言ってしまえば、エアリアは軽く笑い声を立てた。


「じゃあ、驚いても許してあげるから……私が行うことを、何も聞かずに応援してくれるかしら」

「それは……あなたが命ずるのなら。ですが、いったい何を」


 ハーヴェルは首を傾けた。少し掴みどころがないのは、彼女のたちであった。とはいえ、いつになく思わせぶりな語り口に、ハーヴェルは返す言葉を思案する。そうしている間に、エアリアは再び口を開いた。


「あのね、慰霊祭で、聞いたの。星の女神セレイアの御声を」


 ハーヴェルはいよいよ眉根がくっつきそうなほどに近づくのを感じた。あからさまに怪訝そうな騎士の様子に相変らず穏やかな笑みを向けるエアリアだが、それはどこか、もの悲しい憂いを孕んだ眼差しだった。


「私の使命が、分かったの。でも、怖いのよ。星の姫セレイリとして女神に捧げられるのも、女神の神託に従って残りの命を燃やすのも、本当は怖い」


 それは、初めて聞いたエアリアの弱音だったと思う。だが、甲斐性なしの上に、エアリアに降りた神託の断片すら知らぬハーヴェルからは、気の利いた言葉など何一つ飛び出てはこなかった。


「エアリア様。私があなたをお守りしますから、怖いことなどありません」


 我ながら何の根拠もなく、そもそも論点のずれた言葉であった。彼女はいつか、女神に捧げられる。ハーヴェルの眼前で煙になり、灰になるのだ。それを思えば胸が抉られるように苦しい。だが、それを回避する術など持ち合わせていなかった。それでもエアリアは、言った。


「本当に、守ってくれるの」

「もちろんです」

「私が何をしても?」

「はい」

「それなら」


 エアリアは、震える細腕で身体を支え、寝台の上で上半身を起こした。


「一緒にどこかへ行きましょう。二人だけで。それでもう二度と、帰らないの」


 ね、良いでしょう? とエアリアはいつもの微笑みを浮かべた。


 何の冗談かと思った。エアリアは時々突拍子もないことを言ってみるのだが、これは今まで耳にした中で最も悪質ないたずらだった。


 二人きりで、この王宮を出て。二人で暮らし、二人で生きていく。それを望んだことが一度もなかったとは言うまい。許されるはずのない妄想だったが、夢の中で考えてみるくらい、星の女神セレイアは許してくれるだろう。しかしそれは、疑いようもなく実現の余地がない。ハーヴェルは、エアリアの微笑みを受け止めてから、不器用に言葉を選ぶ。


「エアリア様。……ご冗談を」

「違うわハーヴェル。本当に言っているの」

「ですが」

「あなたを愛しているの。あなたがいれば、他には何もいらない。だからお願い」


 縋るような瞳に射すくめられて、ハーヴェルは指先一つ動かせない。二人は見つめ合ったまま、硬直する。やがて、エアリアの瞳が揺れる。湧き出て目の縁に溜まった物を隠すように、彼女は俯いた。


 二人の間にあるものは、果たしてどんな愛情なのだろうか。ハーヴェルには未だ理解できない。エアリアは女神のものであって、誰が望んでも手に入れることの敵わない女性だった。そう、たとえ岩の王サレアスほどの権力を持ってしても、誰ひとり彼女と生涯を共にすることなどできないのだ。それを知っていてもなお、ハーヴェルの胸に宿った小さく、けれど激しく燃えるこの感情は、いったい何だったのだろうか。


「エアリア様……」


 居た堪れなくなり、口を開く。次の言葉が出てこない。必死で言葉を探すのだが、適切な答えを探し出す前に、エアリアは不意に顔を上げた。ハーヴェルは目を丸くする。エアリアの眼には先ほど見え隠れした涙はなく、顔にはいつもの通り、穏やかな微笑みが張り付いていた。


「……なんてね。びっくりしたでしょう」


 ハーヴェルは滑稽にも魚の如く口を開けたり閉めたりしてから、結局声が出ずに閉口した。エアリアの真意は知れない。だが、彼女は口元を手で覆い、上品な笑い声を立てた。


「だめよハーヴェル。本当に心配だわ。私がいなくなったら……いつかは女の人を口説かないといけないんだから。『愛している』って言われたら、もっと大胆にならないと。ただでさえあなた、口が上手くないのだし。それに……」

「いなくなるだなんて!」


 突然飛び出した強い語気に、エアリアは口を開いたまま動きを止める。驚きが張り付いた美しい顔をほとんど睨みつけるように見つめ、言葉は止まらない。


「そんな縁起でもないこと、言わないでください。私が全てを捧げるのはあなただけです。エアリア様がいなくなった世界など、存在するはずがないのですから、そんな心配は不要です」


 エアリアの目は驚きに見開かれていた。それから次第に表情が崩れ、どこか満足げで、それでいてとても寂しげな憂いを纏って行くのを見守った。視線を窓に向ければ、満天の星空と、明るい月が煌めいていた。


「エアリア様、ほら、空が綺麗です。豪雨も日照りもありません。女神はまだ、あなたをご所望ではありませんよ。きっと今日はお疲れなのでしょう。だからゆっくり休んで」

「ハーヴェル」


 エアリアは、ハーヴェルの言葉を遮るように名を呼んで、不意に腕を伸ばした。冷えた指先が頬に触れる感触の直後、熱い唇が逆の頬に触れた感覚。それは一瞬のことで、ハーヴェルの思考が追い付く前に、エアリアは横たわり、掛け布を頭頂まで引き上げてしまった。布の下から、ぐもった声が言った。


「ハーヴェル。本当に大好きよ。あなたは私の……。私だけの、最高の星の騎士セレスダ。でもね、あなたは温かい家族に憧れていたでしょう。いつかは幸せになってね。……誰か、素敵な人と」


 それきり黙りこくってしまったエアリア。ハーヴェルはただ、丸椅子の上で寝台を眺める。エアリアの形をした布のふくらみを、ただ言葉なく見つめていた。

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